8.21 世に棲む日日。
司馬遼太郎が、タイトルに上げた「世に棲む日日」の文庫版あとがきで書いている。
自分には妄想があり、それをなんとかするために小説を書くのだ、という。
他人がすべて昆虫に見えて困ったときもある、という。
これを読んで、司馬文学になんとも惹かれる心が起きる理由の一端を知った気がした。
人は天から与えられた役を行うためにこの世界にやってくる。
幕が下りれば天に帰る。
高杉晋作や吉田松陰はそのような思想のなかで生きて死んだ、という風に、私は同書から、司馬遼太郎氏からのメッセージを受け取った。
役、と言えばすべからく素晴らしいわけはない。基本的には地を這うような人生だろう。金がある。金がない。どちらもその「金」というものが生む関係性に右往左往する。
そう、関係性。他存在を含む他人全部と、この「生」は関係している。関係していないものはない。
無、でさえ、対象に「有」を持つがために重要であるのだ。
その中で「役」が発生せざるを得ない。
ただそのことに「自覚的」である人は、多分ほとんどいないのだろう。
私も当然そうである。なんとなく惰性で生きている感じである。
だが「惰性」であっても、「役」からは逃れられない。だらだらした人生を過ごす人、という役になるだけだ。
であればすこし意識的であってもいいかもしれない。
神や仏というものは、外圧的にそういう意識を起こさせるための装置であるのかもしれない。第3者の視線。誰かに観られている、という緊張感が人生にはあったほうがいいという。
お天道さま、という視線も同じだろう。先祖の霊、とかも似た感じか。
一人きりである、誰も観ていない、となるとどうしてもだらだらMAXになる私の、感覚である。
(「日日」とは吉田松陰の「日」、高杉晋作の「日」、二人なので「日々」ではなく「日日」なのではないかと思っています)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。