11.18 龍樹と「空観」。
昨日はスポーツセンターへ。今週は通えるのは1回だけとなりそうだ。
体重は帰宅時で63.8kg、体脂肪はうろ覚えだが7.1%くらいだったか。前の職場では昼食時にブラさがり健康器にて懸垂をほぼ毎日やっていたが、いまは皇居を30分、3000歩ほど歩いている。
まあ、足腰にはいいのだが、上半身が心配である。なので腹筋ローラーを立ちコロ、ただし壁(実際は段だが)ストッパー付きでやっている。すこしは背中にも効いているようである。できないことより、できることを考えねばならない。
今日は飲み会、あまり飲みすぎないようにしなければと思っている。
さて、先般の神田古書まつりで、別に安くなってもいなかったが、500円で中村元「ナーガールジュナ」1980年を購入したことを書いた。
また、一日数行の亀の歩みであるが、井筒俊彦の「意味の深みへ」も読んでいる。
たまたまであるが、井筒の本で龍樹のことが書かれている箇所に行き当たり、中村元を読んでいると、どちらがどちらかがよくわからなくなってきた。
まずは中村元本P.1「まえがき」から。
このあたりの考え、最近よくこの欄で書いているのは、「すべてが一である」「すべてが全である」というようなことであるが、こういう感覚は日々生活しているとほとんど感じることはない。
私が初めてそのことを意識したのは、池田晶子さんの文章である。過去の、戦争時代の人が私であったかもしれない、というような詩的なつぶやきを読んだのだ。
一読すると輪廻転生を信じる宗教者の言か、と誤解されかねないのだが、そうではない。いや、輪廻に関する池田さんの明確なお立場は深淵なるその思想の中でどのようであるかはわからないが、いずれにしろ例えば小林秀雄がベリクソンや電車での自身の事故の記載のなかでひそかに触れているようないわゆる「神秘的」と感じられるニュアンス、もっと言えば「神秘学的」と感じられるニュアンスも思い出すところだ。
この日本という世界では、神秘、というものに接することは慎重さが必要なように思う。学際的、という語や、ユングが海外の学会ではむしろキワモノ扱いされているということを見れば、その境界はとても微妙なものであることがわかる。
龍樹、といえばいわゆる「仏教思想」であり、仏教とは宗教である、ということになろう。だが、そのアプローチは限りなく「哲学」に近いものだ。
プラトンしかり、新プラトン主義となれば、それはむしろ中世の神学や神秘学、といわれるものとなんら差異を感じられない。
そんなことをじわりと感じる中で、私のなかで「宗教」というものに感じるアレルギーが減退しているような気がしている。
もちろん、留意すべき危険な要素はあるだろう。強制的な布施、家族を巻き込むこと。さまざまな利権や金権が絡みやすいのが宗教の弱点であるとも言えるだろう。
だが、「空」とはなにか、を考えることが宗教である「仏教」の哲学的要素であるのなら。それはちょっと考えてみたいではないか。
そんな感じである。
井筒俊彦 意味の深みへ P.81
胡蝶の夢、やマトリックスのことを思い出すでもなく、こうしたことは様々な表現として示されてきた。
だが、基本現実にどっぷり、が人間のスタンダードだ。言葉と意識で世界を「文節化」しているという意識もなく文節化している。文化の中に住んでいる。
だが、そうなのか。本当に。
仏教が、龍樹が、こだわった点のことを考えている。
(考え方次第、ということなのでしょうが。。全く違った視点で「現実」を捉えてみることも必要なのかもしれませんね)