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3月27日 学校はやっぱり重要かも

打たれ弱い子供だった。

なにかを強く言われるとすぐに傷つき、言った子をみかけると、隠れていた。

隠れている姿を、母親に見られて心配をかけた。
母親は隠れることを否定しなかったが、「かくれてたやろ」とは言った。

それを聞いて、あ、隠れるのはあまりよくないのかな、と思ったりはした。

口では負けるけどバトルではまけへんのやけどな。

その時の気持ちを思い出すとそんな感じだ。この感じが今のプロレス好きにつながっている。最後は体力勝負やろ、という。

まあ、そんなことはないのだが、そこにいないと自身の気持ちが落ち着かなかったのだろう。ある程度世間でやっていける人は、それほど身体の強さにこだわらないはずだからだ。

最近は、いわゆる文学はもう学ぶ必要がない、学ぶ対象ではない、というのがここ日本国の方針のようだ。

まあ、わからんでもない。まったくそんなことはなく、学ぶべきではあるのだが、私の経験からすると、国語で学ぶべき「人生の機微」はだいたい漫画で学んだし、「おもろい本」でも学べた。

漫画と本は私の中では同ジャンルだ。要は話が面白いかどうか。漫画は逆に制限がある。いくら話が面白くても、絵柄が気に入らないと読まない場合があるのだ。

本であれば、登場人物は脳内でベスト選択の上でアクトする。なので、私は挿絵を描くのがすきだったりする。

文学を学ぶ必要がない、という気持ちはわかるが、同時に思うのは「底が浅いなあ」ということ。これ決めた人は大したことないなあ、という気持ちである。

そう、文学をきちんと教えると、わかりやすい成果がないのと裏腹に、中長期的に芳醇な人生を過ごすことができる可能性が増えると思う。だが問題は「わかりやすくないこと」。

説明書やマニュアルを書くためには、文学はあまり役に立たないし、そんなところに役にたつだけの人生ってどうなの、という批判の気持ちさえ生むのである。

だが、ロボットのようにマニュアルをきちんと書くことは、あまり楽しくはないだろう。だが「学びとは楽しくあってはいけない、いやいや拷問のように受けるのが学びなのだ」という、呪いのように私が学校から受けた(と思った)メッセージとの親和性は抜群だ。

だが、例えば知に餓えていた時期の例えばフランス語を学ぼうという意欲、これは翻訳が少なすぎて最新のフランス文学などを知るにはまずは言語を学ぶしかない、という感覚だったという。

いまはどうか。翻訳コンニャクもなんとなく劣化版ながら実現しつつある。WEB空間では翻訳は容易である。

そこではあえて読むための言葉を学ぼう、という意欲は生まれることはすくないであろう。

便利であることは、自身に知を進めたい、という餓えた思いをスポイルする。

そういう意味では、文学を禁止された国語の世界に接する学生たちは、文学への餓えた気持ちを持ちやすくなり、

逆に文学に親しむようになるのかもしれない。

(たしかに国語の時間はほとんど娯楽の時間でしたから。。。)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。