日記4月3日 プロティノスと新プラトン主義と「神と似ること」。そして「おこがましさ」について。
今朝の体重、朝食前65.9kg、体脂肪率5%。今日はラッキーデイのようである。昨日夜、無理して1万歩まで歩き込んだのが良かったのかもしれない。足の付け根の動きを意識して歩いている。足の筋肉を躍動させる感じで歩いている。するとたぶん全身運動性が高まるような気がする(自分比)。
通勤時のリュックは重い。多分10kg近い気がする。ハードカバーを2冊入れると重くなる。1冊だとそうでもない。気分の問題だが。
その2冊の内の一冊が、「新プラトン主義を学ぶ人のために」(水地宗明ほか編、2014)である。
ここのプロティノスの項から引く。
プロティノスは、われわれ人間の幸福、生の最終目的(テロス)を、プラトンの言葉を引用して「神に似ること」(『テアイトス』176B)と表現している。
(前略)われわれは獣として生きることもできるし、神的知性として生きることもできるのである。しかし、忘れてはならないのは、プロティノスの場合、こうしたダイナミックな自己の根は可知的世界にあるという点である。そしてこのことによって、われわれはつねに神的知性への還帰が可能だということになる。個々の魂は何か固定したものではなく、一者から発出するとともに一者に還帰しうるものであり、われわれは一者に向かう運動として存在しているとも言える。そしてこの運動こそが「神に似ること」にほかならない。このようにみるならば、われわれの本性にしたがって生きることとは、自分自身を超え、自分自身を神化しようとすることだと考えられる。この営みを彼は、「神的知性として生きること」あるいは「一者との合一を目指すこと」と表現している。
P.113 田子多津子 「新プラトン主義を学ぶ人のために」(水地宗明ほか編、2014、世界思想社)
神、という語は、今までの歴史で多くのドクサにまとわりつかれている語である。あなたの思う神は私の思う神とは違う、である。特にこの日本、全ての人が個別の「神」解釈を持っているといっていい。
神とは果たして「信じる」ものなのか。池田晶子さんは「信じる」ことの危なさを説かれ、そのことに意識的であるように、と諭された。信じることより、自らの頭で、魂で、考えよ。人の考えではなく、たとえその「人」が高名な「哲学者」であろうとも関係はない。自らが主体となり、考えるのだ。
そう教えて頂いたと思っている。
なので、私も、自分なりに「魂とはなにか」「死とはなにか」「生とはなにか」といったことを考えよう、考える姿勢を取っていこう、と思っているのだ。
池田さんがおっしゃる「哲学史」を教える「哲学史学者」は本当にしょうもないなあ、と思い、かつ私の頭脳ではなかなかそのような人の言説にさえついてゆけぬので、いままで基本的なところも全く押さえずにここまできてしまった。
新プラトン主義が世間的に有名な主義とは思わないが、プロティノスであればこれは高校時代の教科書で「万物流出説(だったかな???)」といったような言葉で説明されていたような気もする。それだけだ。
とにかく、名前を知っているだけではどうにもならんわい、と思い、図書館で前述の本を借りたわけだが、いきなりのインパクトである。
神を信じる=莫大なお布施を取られて監禁されて人生が終わる、と思う自分がいる。信じてしまうと、元に戻れないカルトが宗教だ、と思ってきた。宗教を少し知れば「布教」とは信者の義務であり、その信仰を示す行為でもある(一部の宗教では)、ということを徐々に理解したが、それでも「勧誘」されると「断ることによるストレス」を感じる。
女性が路上で声を掛けられることが、精神的な傷害になるのでは、ということが言われているようだが、これは私見では「YES」である。様々な相手から声を掛けられるのは、相手が邪悪であることもあり、別に邪悪でなくとも「つきあいたい」という思いは場合によっては「怖い」。
ガマ相撲、だったか(言葉はあいまい)ある種のガマガエルでは雄が多く雌が極端に少ないので、一匹の雌に多くの雄が群がりのしかかりもはやそれは集団相撲の様相を呈する、ということを知った。その点ガマの顔はユーモラスであり、事態のあられもなさを少し緩和する雰囲気があるのがせめてもの救いだが、いずれにせよ「あられもない」のが生物として、動物としての我である、と彼らの姿を見て感じ入るところだ。
「声をかける」という行為は、この「ガマ相撲」と同じ行為である。迷惑で傷害行為でストレスを与える行為だと思う。だがガマ雄たちがごとく「気が付くとそういうことをしていました」ということもあるかもしれない。
この行為を「動物的=野蛮」として制御すべきか。「生物の本質」として認める(誰が?)のか。
このあたりが、傷害かどうか、という議論のポイントだろう。
私の感覚では「タマランなあ、人生は」というところである。自己のこととしては、やはりできるだけもしそういう行為をしたならば、せめて嫌がられないような存在でありたいし、マナーでありたい、というところだ。
でもまあ、「これは迷惑やろうなあ」ということはある。ガマ相撲ではないが、おはずかしい高校生時代、告白的なものをやると同日に他に2人が行っていた、ということもあった。やはり集中してしまうし、集中される側はやはり「迷惑」だろうなあ、とは思っている。
話がずれたような感じだが、根底は繋がっている(つもりだ)。もし精神とは別の意味での「魂」があると想定すると、その魂はこの「生物的肉体」、ロシアンルーレットよろしく「たまたま」与えられて騎乗するスクーターが如き肉体に乗っているもの、と想定することも可能であろう。事実かどうかは永遠に不明な「仮定的想定」だが。
輪廻転生、という思想がある。輪廻を信じるのかどうか、と詰められる(誰に?)ことを避けつつ思考実験として考えるとき(このあたりどうしても宗教と宗派で揉めますので)、同じ「魂」が「別の存在」に転生するかもしれない、というのが、「来世はゴキブリになるかも」という考え方だ。
いや、ゴキブリにはゴキブリの生がある。別にタマランわけではないだろう。ガンバにはガンバの生。ここでいう「ゴキブリ」は、「人間から見たゴキブリ」のことになる。
魂の「心もとなさ」=何に転生するかわからん、に加え、そもそも人間の精神がユングがいうような「集合的無意識」の一部からの「一時的な分離」であるのなら、たまたまな部分が、あたかも「映画を見る個人」のように「人生」を味わっている、という考え方もできるかもしれない。
そしてその場合、「帰還」したらまた水滴が海に還るように、全体の一部に戻る、という考え方もできるだろう。その時は、同じ「魂」での「転生」は難しかろう、とも思う。
だが帰還すると「海全部が自分」に戻るだけかもしれない。「一」とはそのあたりが関係する感覚ではないか、と思っている。
海、でたとえると、プロティノスのいう「一者」がなんとなくイメージしやすい(個人的には)。すべての水はいつか海に還っている(と思う)。水蒸気になったり、地中に潜ったり、私やあなたの体の中に居たりするが、結局五日は「海の一部」だ。
海から蒸発、雲、雨、水たまり、飲料水化の後やってきたのが机の上の「コーヒー」だ。人間の魂は、あるいはたまたまのこうした「コーヒー」が如きものなのかもしれない。
それは「コーヒー」という塊となり、「私」に飲まれる。同じように「集合的無意識」は一部が彷徨い出て、人間の中に入って「魂としての私」になる。
思考実験だ、考えるだけだ。永遠に事実は多分確認できない。
であれば人はそれぞれが「見たいように」「考えたいように」してゆくしか、結局はないのかもしれない。
(プロティノスの考えは、魅力的でもありますね)