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久美子が本当にすべきだったのは真由とお昼を一緒に食べることだったという話
今なお胸に燻っているこの思いを吐き出したくなったので、今更ながらしつこく『響け!ユーフォニアム3』の脚本の是非についてお気持ち表明してみる。
最初に大前提としておきたいのは、自分は『響け!ユーフォニアム3』についてはいわゆる「原作厨」の立場に限りなく近いスタンスだということだ。なので、論調としてはどうしても原作の方を立てることになるので、この点が合わなさそうと判断した方にはブラウザバックをおすすめしたい。それでもかまわないと思ってくれた方には、是非このグチグチとした論調の感想延長戦を読んでいただけると僥倖である。
さて、『響け!ユーフォニアム3』については、アニメファンの評価は概ね絶賛と呼べるものであったように思う。そして、そこで多くの称賛を得ているのは、部長という重責を負うこととなった久美子の成長譚としての描写である。
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全国大会前の最後の公開オーディションにて、真由との一騎打ちに久美子は敗北し、高校生活最後の大会で麗奈とソリストとして合奏を行うという夢はここに潰えた。しかし、北宇治高校吹奏楽部が強豪に生まれ変わった時から貫いてきた「完全実力主義」に殉じ、”勝ってしまった”真由をその熱い演説でかばうと同時に、力強く前を向き部員たちを鼓舞した姿に涙した視聴者はきっと多くいるだろう。
本シーンについては、原作と全く展開が異なることに賛否両論の嵐が吹き荒れたが、自分も原作厨としての立場から、久美子が負けてしまったことについて非常にがっかりしたことは否定しない。ただ、これを単に「久美子がかわいそう」とかそういう感情的な理由だけでそう思っているわけではないということを説明したくて、本記事を執筆するに至っている。ここからは、その部分についてなんとか言語化を試みてみる。
まず前提条件となるが、自分はシナリオ全体を通じ久美子を聖人君子たる立派な人物であったと手放しで称賛をするつもりはない。そして、その根拠として第一に挙げたいのが表題にも冠したお昼の件であり、すなわち久美子が真由を友人として頑なに受け入れようとしなかったという点である。
久美子は強豪校の吹奏楽部の部長として「完全実力主義」を掲げそれに殉じ、自らの敗北すら心の成長として受け入れることができた。その姿はたしかに美しいものがあったが、その「完全実力主義」は作中におけるソリスト議論については表層的なものに留まっていたのは、ヒシヒシと伝わってくる”久美子にソリを吹いてほしい”という周りの部員たちの思いにも表れている。
もちろん、葉月のような完全な中立主義者やつばめのような明確な真由派という例外もいたが、「実力が同じぐらいなら久美子に吹いてほしい」という思いは大多数の部員にとっての共通認識であったはずだ。そして、久美子自身そういう空気(=アドバンテージ)を認識しており、それをひそかに心の支えにもしていたように自分には見えた。
作者が原作のあとがきでも語っていたように、真由は久美子の実質的な上位互換となり得る可能性を秘めており、それは「ダーク久美子」という作者自身の表現にも表れている。
高校生活最後の1年間、久美子は今まで自分が築き上げてきたものが全て真由に奪われてしまうんじゃないかという恐怖に常に怯えながら過ごすこととなる。真由にユーフォニアムの実力で凌駕されてしまうかもしれない、真由が麗奈や緑輝たちと自分以上に仲良くなってしまうかもしれない、そしてさすがに作者もその方向に話を持っていくことは自重したと思われるが、秀一が真由のことを好きになってしまうかもしれないという心配は、現実世界の高校生の女の子であれば全くおかしくない心の動きであったように思う。
つまり、久美子にとって真由は”自身のアイデンティティを侵す受け入れがたい存在”であり、”伸び伸びと実力を発揮されては困る存在”でもあったということである。
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そこで、久美子がとった行動が、”真由を積極的には吹奏楽部に馴染ませない”という消極的かつ効果は絶大なデバフ戦術となる。滝先生の審査によるオーディションにより、表面上は「完全実力主義」を貫くことにはなったが、あくまでもこれは表面上に過ぎず、真の公正さを追求するなら真由を友人として受け入れ、本当の意味で彼女が北宇治の部員として実力を発揮できる環境を整えたうえでの公正な勝負をするべきであった。
つばめという存在が同じクラスにいたためごまかされてしまっているが、同じ低音パートであり、転校生という立場からもなにかと心細い思いをしているはずの真由を(部長であるはずの)久美子たちが仲良しグループの一員として認めず疎外してしまっている光景は、傍から見ても異様な光景であったことは想像に難くなく、原作やアニメにおいてもその部分の描写についてはあからさまに避けている節がある(真由がチクリと言及をする場面はあったが)。
何度もしつこく久美子に対しオーディションの辞退を申し出るという久美子目線からは侮辱ともとれてしまう行動からマイナス査定がなされてしまっているものの、真由は基本的に周りに気遣いができる優しい子であり、容姿もスタイルも整っており人気者にならない方がおかしいぐらいのポテンシャルの塊である。であるので、吹奏楽部における軋轢抜きにすれば久美子が友人として彼女を受け入れない理由は無いはずであり、葉月あたりが無邪気に「真由も一緒にお昼食べようよ」と誘う場面が過去にあったとしても全く不思議ではない。
これについては、強引に辻褄を合わせようとするなら、久美子がその時に微妙な表情をしたのを真由自身が敏感に察知し、「私はつばめちゃんと食べるから大丈夫だよ」とやんわりと空気を読んだという一幕があったのではないだろうか。そして、それを渡りに船とばかりに是としてしまったのが久美子の”弱さ”であり、同時に”人間臭さ”でもある。
この辺りのけして綺麗ではない久美子の感情は、原作であれば彼女の”したたかさ”の一端としてある程度自然に受け入れられるというのが、原作厨としての一意見ではある。
上記記事でも述べさせてもらったが、原作の久美子とアニメの久美子ではその人物像に微妙な違いがあり、原作の久美子はより人間臭く、(あすか先輩仕込みの)人たらしの才に恵まれ、非常に頭も切れるしたたかな面を持つ人物として描かれている。いわば、原作では最終的に久美子が全国大会のソリストを勝ち取ったのは、そのような性質を持つ彼女が”最後までしたたかに真由の実力を抑えきった世界線”の話であったと表現することができ、文字通り”真由に塩を送ることとなった世界線”であるアニメとはその成り立ちが明確に異なるのである。
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よって、”最終的な久美子の勝利が王道すぎる”という点のみをもって、原作側の展開を浅いと断じられることには反論をしたいところであり、久美子のしたたかさや人間臭さを曲げずに描き切ったという点において、終始一貫性のとれたシナリオとしての美学がそこにはたしかにあったのである。
本記事においては、表題にも冠した物語上重大なポイントであったはずの議題についてあまりにも世間的な関心がないことに疑問を抱き、ここまでその思いを述べさせていただいた。自分自身、この考え方が世間にどう受け入れられるのか非常に興味があるので、是非とも思うところがある方はコメントにて意見を聞かせてほしい。