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【短編小説】月をはらむ川

恋人を待っていた。
校門の前、ビニール傘に雨がぶつかる音。花壇に植えられた葉牡丹が、雲に厚く覆われた空を見上げていた。
先刻より雨は弱まった。校舎の窓から見た時は、まるで霞がかかっているように見えるくらい、しのつく雨が降りそそいで、いつもなら遠くに見える墓地公園の森の茂みが白くぼやけて見えなかった。
重く湿った空気がまとわりつき、しんしんと寒い。リノリウムの床は結露で滑りやすくなっていて、上靴がキュッキュッと音を立てた。誰もいない辛気臭い美術室でストーブもつけずにイーゼルに向かっていると、恋人から持たされた携帯にメールが届いた。

『雨すごいね。迎えに行くよ』

僕はすぐさま返事を送って、パレットの絵の具をペインティングナイフでこそいで雑巾で磨き、絵の具で汚れたそれを新聞紙で拭い、まだ乾いていないキャンバスを乗せたイーゼルを教室の隅に置いた。荷物をまとめて美術室を出るとき、描きかけの絵のほうを振り返った。恋人の絵だった。

校門の前では僕と同じように迎えを待つ生徒が数人、傘をさして佇んでいた。でも彼らの迎えはきっと親やきょうだいだろう。僕は違う。恋人が迎えに来る。桃色の傘を差した人が坂を上って来ていた。その後ろから黒塗りのセダンが近づき追い越し、僕の前にゆっくりと停車した。ウインド越しに恋人は笑いかけた。僕は傘を閉じて雨粒を振って落とし、素早く助手席に乗り込んだ。暖房で暖められた空気が僕の体を包み、頬を撫でた。

「仕事、よかったの?」
「君のこと考えてたら、手につかなくって」

馨さんは冗談めかして笑いかけた。馨さんが笑うたびに、きゅっと上がった口角の上にくぼみができた。目じりの皺がチャーミングだった。
僕はスカートをたくし上げて、あらわになった白い太ももに、温まって赤くなった手のひらをあてた。太ももは陶器のようにひんやりしていた。

「行儀が悪いよ」
馨さんが笑う。
「女の子だから?」
僕は意地悪く笑い返す。
「女でも男でも。誰かに見られたくない」
「だって冷たいんだもん」
僕は雨に濡れて冷たいプリーツのスカートの裾を正した。穿きなれたローファーにも雨水が滲みて気持ち悪い。

「絵を描いてきたんでしょ」
「何で?」
「油のにおいがするから」
「ご明察」
僕は舌を出した。
「何の絵描いてるの?」
「内緒。完成したら見せてあげる」
「君の絵、好きだよ。将来が楽しみだな」
将来という言葉に少しどきりとした。
これから先も、馨さんといっしょに居られるだろうか? 僕の絵を見てもらえるだろうか? 僕はもうすぐこの街を出て行かなくてはならない。絵を学ぶには街を出て遠くの学校へ行かなくてはならなかった。

どこに行く? と聞かれた。馨さんと一緒ならどこでもよかった。そう告げると馨さんはまた笑った。本当によく笑う人なのだ。

「オートマに変えてさ」
馨さんはウインカーを出しながら僕の右手を優しく握る。
「何がよかったかって、こうやって手をつなげるのがいいよね」
僕は黙って手を握り返す。
車好きの馨さんがMTの外車からATの国産車に変えた本当の理由を、僕は知っていた。

馨さん行きつけの喫茶店の前で車はとまる。路地に面したこじんまりとした店で、アンティーク調の真鍮のレバーハンドルに「OPEN」の札が下がっている以外、看板らしいものは見当たらず、お店なのか何なのかよくわからない。僕は先に降り、馨さんは店から少し離れた駐車場に車を停めに行く。
店内もまた暖房をよく効かせてある。フレーバードティーの芳醇な香りと、焼き菓子の香ばしいバターの香りが漂っていて、僕は深く息を吸い込んだ。カウンター五席とテーブル二卓のとても小さな喫茶店だ。壁は一面本棚で、レコードやCDなどもディスプレイされている。すべてマスターのコレクションらしい。
見た感じ常連のサロンのようになっていて、一元の客は少ない。レコードプレーヤーからゆったりとしたジャズが流れ、客たちはひそひそと囁くような声でティータイムを楽しんでいた。

馨さんはウヴァのミルクティーを、僕はアールグレイのストレートを注文し、チュイルやビスコッティをお茶うけに紅茶を啜った。

「絵がね、売れたんだよ、今朝」
馨さんは嬉しそうに言った。
「雨の日はなぜか売れるんだよ。お客さんが少ないことが多いのにさ」
馨さんのギャラリーでは本当によく絵が売れる。馨さんは「ただの税金対策だからね、好きにやってる」といつも謙遜して言うけれど。作品の鑑賞を口実に、ギャラリーには頻繁に顔を出しているが、絵が売れていくその現場を何度も見たことがあるし、梱包や発送の作業を手伝ったこともある。
馨さんがセレクトする画家や作品がよいだけでなく、丁寧な接客や絶妙なセールストークであっという間に客と打ち解け、うまく買わせてしまう。面白いのは、お金を払う客のほうが感謝一杯に礼を言うのだ。馨さんはその人の欲しいものを見つけ、与えるのに長けていた。

「いつか君の絵も飾りたいな」
馨さんの華奢な指先が、僕の頬を包み込むようにしてうなじに触れ、僕は思わず身をよじった。
「でも、僕、街を離れないといけません」
「どこにいたって構わないよ、今は電話もメールもあるんだから」

離れたくないと、言ってくれればいいのに。
もし馨さんが僕に行かないでほしいと言ってくれたら、何が何でもこの町を離れないようにしたいと思っている。たとえ絵の道を断たれたとしても。だけどそうは言ってくれない。理由はわかっている。だから僕も、離れたくないとは言えない。それに僕が描くことをやめれば、きっと馨さんは僕への興味を失うだろう。

馨さんの唇が僕の唇に押し当てられた瞬間を、僕は鮮明に覚えている。その感触でさえも思い出すことが出来る。
馨さんのギャラリーで、著名な画家のサイン会が行われるという案内を美術の先生からいただき、僕は仮病を使って学校を抜け出した。僕とそんなに年の変わらない若手ということで、一度会ってみたかった。絵画の持つ可能性をこの目で見ておきたかったのだ。遅刻するのを恐れるあまりに早く来過ぎてしまい、エントランスはまだ閉ざされたままで、待ちぼうけを食らった。

その日も冷たい雨が降っていて、僕は傘を忘れ、軒下で縮こまっていた。すっかり重くなったスカートの裾からは雨水が滴り、ローファーは水をたっぷりと吸い込んで歩くたびぶかぶかと音を立てた。じっと立っていると足元に水たまりができた。ずぶ濡れになった灰色のセーラー服をまとった僕は濡れネズミのようで、それで馨さんの同情を惹いたのかもしれない。引き戸がひらく音がし、振り返ると、着物姿の馨さんが立っていた。

彼女はギャラリーの中へと僕を招き入れた。まるで鈴が鳴るみたいに、小さいのによく通る声だった。障子で仕切られた和室に通された。馨さんは清潔なタオルで僕の頭を拭き、着ているものを脱がし始めた。その絢爛な格好とは似つかわしくない世話の焼きようで、僕は恐縮してしまってされるがまま、与えられるがままでいた。スポーツ刈りの髪はすぐに乾いた。

――罰ゲームか何かかと思ったわ。
馨さんは僕のスカートのホックを外しながら言う。
――男の子がセーラー服を着せられてずぶ濡れでサイン会に行くっていう。
僕は恥ずかしくて畳の目をじっと見た。手渡されたコットンのワンピースを身に着ける。

――君、藤原君の生徒ね。
知っている名前が出て驚いた。僕の美術の先生だった。
――大学の時の同期よ。教師をする前、画家だったの、彼。ここでも個展したわ。
初耳だった。

――君の絵、見せてもらった。
――どうして僕の絵なんか。
――秘蔵っ子なんですってね。
くすりと馨さんは笑う。あんまり上品に笑うものだから、褒めているのか皮肉なのか、判断がつかなかった。藤原先生が僕に一際目をかけてくださっていることはわかっていた。僕自身、校内では一番うまく描けると自負している。けれどギャラリーのオーナーにそれが通用するかというと、それはあり得ないくらいの分別はつく。だから僕はひどく恥ずかしかった。黙って見せるなんて、そしてそのこと自体黙っているなんて、いくら藤原先生とはいえ、なんてデリカシーがないのだろう。知っていれば、ここには来なかったのに。

――とてもよかったわ。
――本当に?
馨さんの微笑は肯定的に受け取れた。お世辞でも、嬉しかった。だけど嬉しくて舞い上がっていると思われるのも嫌で、もうすでに僕は馨さんの顔を直視できないでいた。逃げ出したい気持ちと、この人とずっとここにいたい気持ちとが胸の内でぐるぐるとマーブル模様になって、膝がふるえた。この時僕はすでに恋していたのだと思う。尊敬、憧れ、畏怖が僕を支配し、がんじがらめにしていた。そして馨さんはそれに気がついていたのだ。まるでそれが至極当然のことのように、馨さんの唇が僕の唇にそっと触れた。何をされたか一瞬解らず、そして分かった瞬間、体中の熱い血が一気に頭に押し寄せてきてくらくらとした。馨さんが耳元で囁いた。

――君のこと、もっとよく知りたい。
その時から、僕の胸には馨さんが焼き付いてしまい、こびりついて離れなくなってしまった。

ハネムーンはハニームーン、元は蜜月の意味から由来していることさえも知らないくらい、色恋には関心がなかったのに、僕はあっという間に蜜の中に溺れてしまった。瓶詰めの甘い蜜の中で身動きがつかなくなっている僕を、馨さんは硝子越しに眺めているようで、僕の自意識はますます張り詰めて、気が狂いそうだった。馨さんとの日々は跳ね馬のように過ぎ去っていった。

馨さんの白くてきめ細かな肌をキャンバスに出来たらどれほど素敵だろうか。
指先にたっぷりと色を掬い、馨さんの肌にぶつけたり、塗りたくったり、擦りこんだりするのだ。絵の具は肌の上で垂れてこぼれ、混ざって濁り、複雑な模様をつくる。ありとあらゆる毛は濡れそぼち、色素の薄い乳輪は鮮やかさの中に姿を隠す。

そんなことを頭の片隅でぼんやりと考えていた。
古いレコードなのだろうか、音楽にはかすかにではあるが、パチパチというノイズが混じっていた。心地の良いノイズがあるということを、僕はこのお店で初めてレコードを聴いて知った。
マスターが静かに灰皿を出したが、馨さんは丁寧に断った。
僕が嫌がっても平気で目の前で吸っていた煙草も、あっさりやめてしまった。おかげで迷惑しなくなったけど、それはそれでさみしかった。たぶん、お酒もやめたのだろう。夜遅くに会うことはないから、お酒を飲んでいるところを見たことはないが、電話をかけると大抵お酒が入っていた。ある時、薫さんの不摂生を責めたことがある。すると、

――潔癖なのね。
馨さんは大儀そうに煙を吐き、
――そういうの、いつか身を滅ぼすのよ。
と冷たく言い放った。後にも先にも、馨さんがこんなぞんざいな言い方をすることはなかった。身を滅ぼすのはどっちだか、と思いながらも、僕はそれ以来ずっと触れないようにしてきたのだ。なのに馨さんはあっさりと変わってしまった。理由は言われなくとも勘付いていた。

「実は――」
はにかみながら馨さんはいたわるように自分の腹を撫でた。僕と馨さんとの間には、一生得ることができないものが、馨さんにやどっていた。その意味を僕は生々しいほどに何重にも突き付けられた。
聞きたくなかった。だけど、聞きたくないとは言えなかった。どんな些細なことでも、たとえ胸の内をかき乱されるような事実でもなんでも、馨さんのことはすべて知りたかった。僕にだけは嘘をついてほしくなかった。だから僕は精一杯の気持ちで言った。誰も傷つかないように、慎重に言葉を選んだ。

「僕も馨さんとの間にもできたらな」
「君には早いよ」
馨さんはケロリと言う。
「流れてる時間が違うの、君とは。君は何もかもこれからなんだもの」
僕を心配して迎えに来てくれた馨さんと、今、そんなことをこともなげに言ってしまう馨さんとが、僕の中でうまく一致しなかった。気持ちをごまかして笑うのは、もう無理だった。零れ落ちそうなものを堪え、やっとの思いで告げた。

「帰ります」
「雨、ひどくなってるよ。送るよ」
馨さんは動じない。いたわりの滲む微笑みはどこまでも美しい。
「ひとりで帰れます」
この一杯の紅茶代さえろくに持たない自分がこんなところにいるのが恥ずかしく、そして悔しい。僕は席を立ち、あるだけの小銭をテーブルにぶちまけた。数百円にも満たない小銭たちがテーブルの上を跳ねたり転がったりし、何枚かはテーブルから落ちてあちこちに転がっていった。凄まじい音に客が一斉にこちらを振り返った。僕は店を出た。視界の端に身重な馨さんが小さくしゃがんで小銭を拾う姿が見えた。

傘を馨さんの車に忘れていたが、構わなかった。
薫さんは追って来なかった。馨さんが黙って小銭を拾う姿が脳裏に焼き付いて、僕はため息を吐いた。ため息は真っ白く渦巻いてたちまち消えた。
雨は小降りになっていたが、一粒一粒が重みを増し、きらきらと輝いた。雨よりも雪よりも冷たい霙が頬を打ち、どろりと零れ落ちていった。

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