しにたい気持ちが消えるまで―第一章―可愛いお人形さんになれなくて、男になることにした
最初の記憶は、キッチンにぺたりと座り込んで、うなだれて、子供のように泣いている母の背中。色白の母の足の裏は一層白くて、作り物みたい。お腹が空いているのかもしれない、と思って、私は哺乳瓶を探す。けれど、それは手の届かないところにある。どうしようもなくて、私は呆然と母を見ている。その時の私はまだ、かける言葉というものを知らない。
その次の記憶は、街の夜景を見下ろす大きなガラス窓に写り込んでいる、不機嫌そうな私。母の迎えを待っているのだ。同い年くらいの子どもたちは、かけっこをして遊び回っている。保育の先生が私に声をかけてくれるが、私は取り合わない。そうやって母のことを一心に思って辛抱強く待っていれば、少しでも早く母が迎えに来てくれるはずだ、とおまじないをしていた。ひとり、またひとりと、遊んでいる子どもらに迎えが来る。私には来ない。いつもそうだ。母の迎えはいつだって最後だった。でも、それでも、おまじないはやめない。もうほとんど、泣いているような状態で、せっかく先生が優しく声をかけて、体に触れようとしてくれるのに、私はその手を拒絶する。喉から手が出そうなほどに、それを求めているくせに。
その次の記憶にはもう、「お義父さん」がいる。義父が現れてからしばらく、寂しい記憶はない。私の両手には母と義父の手があり、見上げれば笑顔がふたつあった。
当時の写真を見れば、母は私をお人形のように着せ替えていたようだ。毎日綺麗なシニヨンを結って、ドレスのようなふりふりのワンピースを着せた。お気に入りの水色のギンガムチェックのワンピースが、体が大きくなってしまったために着れなくなって、ぐずったことを覚えている。結局、母のアイディアで大好きな白のテディベアに着せてあげることになって、私は機嫌を直した。地味で気に入らなかった真っ白なオーバーオールは、義父とカラフルな動物のステンシルをほどこすことで、お気に入りの一着となった。
そうやっていわゆる女の子らしい格好を好んでいた私だったが、小学校に上がってしばらくしたくらいから、そういうものを一切嫌うようになった。スカートを履かなくなり、ピンク色が苦手になり、ついには「私」と言えなくなった。
元々小児喘息だった私は病弱で食が細く、あまり外に出ないために、痩せていて色が白かった。
小学校に入学する頃、自給自足の生活に憧れていた義父の誘いで、家族三人で大分県の田舎の田んぼと畑のある、庭の広い平屋の一軒家に引っ越した。人口2万人ほどの自然豊かな小さな町だ。すると私の喘息はみるみる治ってしまい、よく食べ、よく遊ぶ子供になった。肌はこんがり小麦色で、ぽっちゃり体型になった私を、母は「ブタ」と罵った。
母は良くも悪くも、思った通りにはっきり言い、思っていることを露骨なほど態度に出す人だった。
そんな母は昼のドラマが好きで、特にサスペンスや刑事ものを好んで見ていた。私も、意味もよくわからないまま付き合って一緒に見ていたと思うが、そのとき母は決まって「医者か弁護士になりなさい」と言った。「弱い立場の人を守る人になりなさい。強くなりなさい。そのために勉強しなさい」と。母は勉強が嫌いで、親に無理やり入学させられてなんとか短大を卒業したことをコンプレックスに思っているらしかった。
今考えれば、その理屈もわかる。韓国人の母は私の父だった人と一緒になるためにたったひとりで日本に渡ってきたが、その後うまくいかなくなって私が生まれる前に別れた(父親の私たちへの裏切りについて、私はいろんな思いがあるが、今はまだ詳細には語れない。この国の男たちのアジア人女性、特に朝鮮人女性への蔑視に近いものを私は感じてしまう)。とある繁華街でお店を切り盛りしていた母は、故郷に帰ることなくそこで私を生み、私を育てた。
まったく言葉の通じない国で、私のような子供を抱えて、生きていくには、どれほどの強さが必要だったろう。強くなるには、たったひとりの韓国人女性にはハンディが大きすぎる。いろんな我慢や無理もしてきたのだと思う。
私よりだいぶ年上の韓国の従姉妹たちも、当時はまだ、日本で就職することが有利だと思って、留学して日本語を学んでいたくらいだったから、日本語を母語にする私に母なりの期待があったのだろう。
また、医者や弁護士はフリーで稼げる。誰かに頼る必要もない。「日本人は薄情だ、誰も頼りにならない、助けてくれない」。当時はまだそういう母の言葉にピンと来ていなかった。むしろその言葉は、日本人の血が流れ、日本人として生まれた私の心をナイフのようにえぐった。けれど、大人になって少し理解できた。国籍や血で差別されてつらい思いをした母にとって、言葉の壁よりも差別こそが大きなハンディだったのだろう。
私の「エリ」という名前は韓国では「愛里」と書き、韓国でも日本でも「エリ」と読むことができる。どちらの国にも擬態できる――という言い方をするのも変だけど、実際の気分としてはそんな感じだ。だから正直、私は自分の名前を好きになれない。愛する里だなんて、とんだ皮肉だと思う。「反日」「嫌韓」が私の身に降りかかることを母は強く恐れていた。「勉強しなさい。私みたいになりたくないのなら」。母は厳しかった。
まだ小学校に入学して間もない頃のこと。ある時、クラスの男子二人が、私を見てニヤニヤと笑って目配せし合い、二人でコソコソと話していた。「何?」と聞いてもヘラヘラして内緒話をやめない。その態度がどうにも気に入らなかった。私は背が高く、身長順で並ぶといつもクラスで一番後ろか二番目かだったから、男子なんて怖くなかった。私はその子達を叩いてしまった。
そんなつもりはなかったのに、彼らは泣き出してしまって、あとで校長室に呼ばれた。親まで呼ばれる事態になって、よくよく聞けば彼らの頭にたんこぶができていたらしい。叩いた理由を聞かれても、実際に何か言われたわけでもないし、幼い私にはその不快に思った訳をうまく説明する能力がない。義父は私を叱ったが、私は納得がいかなかった。でも、母は怒らなかった。むしろ、帰ってから、「お前は根性がある」と褒めさえした。母には状況が分かったのだ。
全校生徒100人にも満たない片田舎の小さな小学校だ。保育園からみんないっしょのところに、ひとり転校生のような形でやってきたよそ者の私が、珍しかったのかもしれない。北九州弁に近い、喧嘩しているように聞こえるきつい方言のある町で、おっとりとした伊予弁に慣れていた私にとって最初は馴染みにくかったし、実際、言葉をからかわれることもあったが、母の言葉が支えになった(振り返って思えば、取っ組み合いの喧嘩なんかも平気だったし、もしかして、自分が思っている以上に粗暴な子どもだったかもしれないな、とも思う。世代の問題かもしれないが、義父からも母からも体罰があった。義父は戦中生まれだし、母は発展途上の韓国で育った。
暴力をふるったりふるわれたりということにあまり抵抗がなく、コミュニケーションのひとつとさえ思っていたのかもしれない。園児の頃、キューティーハニーFやセーラームーン、神風怪盗ジャンヌなど、美少女戦士のアニメが流行っていて、好きで見ていたのも関係あるのかも)。
女の子で理不尽な嫌がらせをしてくる人はいなかったと思う。喧嘩はたくさんしたけれど、それは友達だったからこその喧嘩だった。男子からの意地悪は陰湿で、決まって複数で嫌がらせをしてきた。どんなに頑張っても、「女だから」と軽んじられている感じがあって、負けん気の強かった私は嫌でたまらなかった。お絵かき帳を破かれたり、ひとりで学校から帰っていると後ろでずっと悪口を言われたり、ゲームのセーブデータを消されたりと、いじめのようなこともされたが、「根性」があったおかげか、私はそういった連中を心から見下していて、あまり深く気にすることもなかったし、何ならきっちりやり返したので、嫌がらせがエスカレートすることはなかった。
いつだったか、小学校の授業参観で、大人対子供のディベート大会があった。
ディベートと言っても、低学年相手のものだから、大した議論にもならないのだけれど、その中で私は「女に生まれたことが嫌だ、子供を産まないといけないから」と発言したことを覚えている。当時母が妹を妊娠していたか、出産していたかで、大きなお腹を抱えて家事に苦労していたり、具合の悪そうにしている様子を見たりしていた。そんな母に対する義父の態度に私は不満を抱いていたし、もしかしたら、出産はとても痛みが伴うことを母から冗談交じりに脅されていたかもしれない。
私は結構そのことをナーバスにとらえていたのだと思う。だからこそそういう発言になったのだろうし、そのときのことをいまだに覚えているのだろう。看護師をしている誰かのお母さんが「お産はつらいけど、かわいい我が子を生むことができて、女に生まれて良かった」と答えた。私はその言葉をどうにも受け容れがたかった。
母は、私も妹もひとりきりで産んだのだと言う。誰もそばにいてくれなかった、と言う。
その授業参観に母がいたかどうか、覚えていない。
一つ学年が上の子にボーイッシュな女の子がいた。髪はまるで男の子みたいに短髪で、手足がスラリと長くて、青い上履きを履き、アディダスの黒いリュックを背負っている。自分のことを「僕」と言っていた。女子は赤い上履き、赤いランドセルだと思い込んで、自分のことを「私」と言えない、「女の子らしさ」に悩んでいた私は、彼女の存在に憧れた。
母に相談すると、ランドセルは6年間使い続けるように言われたが、青い上履きは買ってくれた。長かった髪を切って自分のことを「僕」というようになると、気持ちが急に楽になって、なんだかしっくり来た。義父からは叱られたが、その頃には母と義父の関係は険悪になっていたため、義父と殆ど顔を合わせないように避けていた。だから何を言われても構わなかった。
母の期待する「お人形さんのようにかわいい女の子」になれなかった私だが、「頼りがいのある男」にはなれる、と思ったのかもしれない。義父の代わりに、将来家族を守ることのできる大黒柱になることを望んでいたのだと思う。急に男の子のように振る舞いだした私に、母はむしろ肯定的だった。「誰にも負けない強い人間になる」。私はますます、競争というものに力が入った。
男なら、「ブタ」でも関係ない。勝ちさえすればいいのだから。