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『ミステリと言う勿れ』整は本当に「ポリコレアフロ」たりえているか?
はじめに
ミステリと言う勿れを観た。印象的だったのは、菅田将暉が演じた整の語りである。
高齢の男性が「女の幸せ」という発言をし、それに反論する形で整が長々と男性を批判するシーンがある。
そして、その発言が称賛されているらしい。
(この反応を探すためにXを見ていたら、整が「ポリコレアフロ」とかなんとか言われていて、やっぱりいやな場所だなあと思った。)
一方で、私としては、この映画が全然ポリコレ的ではなく、むしろ男性が優れていて女性はそれに劣る、みたいな感覚を無毒化しながらも温存する映画だと感じた。
それは、社会構造に由来する女性の不満が、イケメン若年男性の語りによってその問題を解決することなく解消されてしまっているからである。
事件解決における女性の不在
この映画では、問題の解決を担ったのは一貫して男性で、女性はその男性に導かれアドバイスされる役目、あるいはサポートする役目を担わされていた。
つまり、女性が事件解決から排除されていた。
物語の構造としては、汐路の父親である弥がたどった事件の痕跡を、部外者である整が明らかにしていくというものである。汐路は自ら事件を調査する能力をもたず、解決に父親と整の手を借りる。彼女に関しては年齢が若いことも考慮しなければならないとは思うが、一方でそのために弥や整から「~したほうがいい」「あなたは~です」的なアドバイスを受ける場面が多い。未熟な女性が男性によって導かれる、というのがこの映画の大まかな構造になっている。
より問題が大きいのは汐路の母親であるななえである。彼女は不自然なほど事件に関与しない。そもそも関心さえ持っていないようである。娘が死体を掘り起こして泥だらけになったときですら、その内容には触れることがなかった。事件を調査する整の洗濯を担っていたことも示唆的である。整は家事をさせるのを嫌がっていたが、結局汐路の母親にそれをさせることで事件の解決に集中している。
自らの夫の死に関わる事件について、どうしてここまで無頓着でいられるのか。その理由は結局わからずじまいだった。事件の当事者とは作中でも考えられていないようだった。大きな違和感。
次に、ななえよりは事件解決に協力したゆらである。ただし、描写としては大きく疑問が残る。
遺産相続ゲームの一プレイヤーでありながらも、参加には積極的ではない。その場に居合わせはするものの、「私はやらないから」と一歩引く態度がたぶん複数回みられた。
それが、やる気を見せるようになるのが娘が殺人のターゲットにされかねないという理由だった点や、犯人が自白する場面で汐路がしゃがみこんだとき、慰めに入ったのもゆらだけだった点も気になる。
(悪しき)伝統の残る狩集家で育った男性が集まる環境だったことを表していると考えられるが、この映画では高齢の男性は批判の対象となる一方で、若い男性は批判を免れている。
批判される男性と、批判を回避した男性
この映画で徹底的に批判の対象となっているのは、高齢の男性である。事件の黒幕は高齢の男性だし、先述の「女の幸せ」的なワードを出したのもまた別の高齢男性である。
彼らに対しては、菅田将暉演じる整はじめ若年の男性らによる説教が入る。彼らは作中でしっかり批判されている。
一方で、彼ら若年男性はどうだろうか。先述のように、汐路の母ななみやゆらは家事労働を担う一方で、そのほかの男性たちが家事を行うシーンはない。
伝統的な家庭で育ったから仕方がないとも言えるが、その伝統を温存していた側であることも忘れてはならない。
そうした伝統を変革しようとしたのが汐路の父親である弥であるとすれば、そのほかはそうした環境にあぐらをかいていたとも言えるのだ。
しかし、彼らに対する批判はない。もっといえば、実行犯である朝晴も、自白のシーンで異常とも言える発言を繰り返すことで、問題が彼自身よりもその祖父にあるような印象を与えている。これにより、若い実行犯ですら、批判が回避されている。
高齢の男性が徹底的に批判の対象となる一方で、若年の男性は(その行為にも関わらず)批判を回避している。
わるい男性からよい男性への権力移行
結局、この映画で行われていることは、男女不平等の解消では決してない。その点では、整はまったく「ポリコレアフロ」でない。
むしろ、ここでは男女間の対立が世代間の対立へとすり替えられている。
弥や整は、優しく理知的な男性として登場する。そして彼らがリーダーシップを発揮し、事件を解決する。
一方で彼らは、若い女性である汐路を導く存在でもある。ゆらやななみを含め、非力で無力な存在である女性を守り、助言し、指導する。そうした役目を担っている。
しかし、権力を発揮するのがわるい男性→よい男性になっただけであって、まったく男女の社会的な不平等はまったく解決されていない。
本来男女の格差が問題であるはずなのに、この映画ではそれが良い男性と悪い男性がいて、悪い男性を排除することが問題の解決策となってしまっている。
問題を解決しないまま、イケメンの男性が男女の不平等に異を唱えるシーンを挿入することで、不満が鎮火される。しかし、これでよいのだろうか。
おわりに
『ミステリという勿れ』は、漫画が原作となっている。発売元を見てみると、フラワーコミックスと書いてある。wikipediaによると、女性向けのレーベルらしい。
フラワーコミックスは、小学館が発行する日本の漫画単行本レーベル。少女漫画からレディースコミックまでと幅広く女性向けの作品を収録している。
女性向けの漫画、というより漫画自体に全く詳しくないのだが、やはり男性の強さ(肉体的なものだけではなく、精神的・理知的なものも含めて)に惹かれる女性が多いことを、本作の描写は表しているのかもしれないなと思った。
実際の社会は簡単に変革しないから、それが今を生きる女性の処世術であることもわかるし、結局それを強いているのが男性であることもわかる。
しかし、それでもこの映画を男女不平等を扱ったものとして評価するのは非常に厳しいと思った。