時間は全ての人に平等。自分の可能性に賭けることが人生の糧になる
こんにちは、mamekaです。
今回は、「誰にでも時間は平等に与えられており、自分の可能性に賭けて最大限挑戦する」ことについて、つらつらと書いていきたいと思います。
私は、今まで、自分が立てた人生の目標をまだ達成していません。
なぜか?それは、心の底からそれを成し遂げようという腹づもりができていなかったからでしょうか?目標設定が間違っていたからでしょうか?
実力不足だったからでしょうか?適切な努力ができていなかったからでしょうか?
自分が立てた目標に対して、どうしていたのか、過去の話を振り返りたいと思います。
出来るだけ記憶を遡ると、私は、小学生の頃、サッカー選手になりたがっていたと思います。
親が、休日に、暇を持て余していた私を見て、「地元のサッカー少年団に入ってみてはどうか?」と薦めてくれました。このとき、私は、サッカーに対する思いは全くありませんでした。
私がしばらくして、「暇なので見学に行きたい」というと、親が少年団へ電話をしてくれました。
「来週、練習試合があるみたいだけど、人が足りてないから出てくれだってさ」
ポツポツと雨が降っている中、車でグラウンドにいきました。思えば、ここからが、私が何かに打ち込む原体験になったと思っています。
「じゃあ、mamekaはセンターバックをお願い」年配の監督にユニフォームと一緒に言い渡されました。
センターバックというと、チームの最後の砦であり、なんでいきなりきた私にそんなポジションを任せるのだろう?ととても疑問に思いましたが、「やってやろう」と思いました。
試合が始まってみると、前の方で、何が起こっているのか全然わからず、ゴールキーパーに、
「もっと、前線に上がっていいよ」といわれました。ボールがきたら、とりあえず、前に蹴り出して、
相手フォワードがドリブルで仕掛けてきたら、それに頑張って食らいついていきました。
前半は、あっという間に終わりました。休憩中、チームメンバーを知らないので、
試合中、話してたゴールキーパーの子と、「隣の小学校からきてるの?」といった話をしていました。
後半になると、雨が次第に強くなってきました。
0対0のまま試合が進み、相手フォワードが最後、強烈なシュートを打ちました。
私は、必死になっていたので、それを止めようと、鳩尾にモロにシュートを喰らいました。
審判の笛が鳴り、試合が一時中断しました。息ができなく、時が一瞬止まりました。目の前の世界が回り始めました。
"何で俺こんなに頑張っているんだろう"一瞬微かによぎりました。
そこから、すぐ復帰し、フォワードがきても喰らいつけるようになりました。際どいボールをクリアーできました。
そのまま、試合終了の笛が鳴り、練習試合が終わりました。
身支度をおえた後の、私の気持ちは、「早く帰ってお風呂に入りたい」でしたが、横で見ていた親御さんたちが、「mamekaすごいよ」といってくれたり、チームのメンバーが「一緒にやっていこうぜ!」と声をかけてくれました。
"自分がいた方がいいなら、このままサッカーをやってみようかな"と、そのまま入団を軽く回答しました。(こうした何気ない言葉によって、人は動かされるのだと今さらながら思います)
私が入ったサッカー少年団は、1位2位を争う地元でも最弱と呼ばれるチームでした。
週末に練習をして、その後は、友達とグラウンドでミニゲームをやったり、駄弁って帰る。今思えば、皆で和気あいあいと練習して、とても心地よい環境でした。
そうなると、遊び感覚で、週末が楽しみになって、サッカーにすごいのめり込みました。
帰宅後、家の塀にボールを蹴って毎日練習をしてました。隣の家のおじさんに、うるさいと毎日怒られました。それでも、親には言わず、練習のためにずっと蹴り続けていました。
遠くにいくのが面倒なのと、近所に、蹴り込むのにいい壁がなかったからです。それが、いつしか中学まで続く私のルーティンになっていました。
チームは、サブメンバーを抱えるぐらい増えたのですが、相変わらず弱小チームのままです。
試合には負け続け、それでも、チームメンバーは笑って、「今日のチームは地元でも3番目くらいに強いよ」くらいしか言いません。
最初の方は、私よりサッカーが上手いチームメンバーが言っているのだから、やっぱりそうなんだろうな。
と思っていましたが、「点数を抑えても、ゴールが入らないと意味がない」と次第に気づき始めました。
監督に、「僕をフォワードにしてください」と何度もお願いしましたが、結局叶うことはありませんでした。自分がやりたいことができませんでした。
結局、私が所属していた少年団のチームで勝利したのは、3年間でたったの1回。それも地元で1,2位の最弱を争うチームでした。
そうしたモヤモヤした感情のまま、中学校に進学しました。
小学校から中学校に上がると、授業中の「将来の夢は何になりたい?」という質問が次第に怖くなります。
なぜなら、頭が良くなった中学生は、その夢が実現可能かどうかをシビアに判断するようになるからです。
私は、皆と一緒で「サッカー選手になりたい」と言っていました。部活も少年団の友達がサッカーを選ぶので、
サッカー部を選びました。しかし、本当にサッカー選手になんてなれるのでしょうか?
弱小チームで、少しぐらいサッカーができるひよっこに、サッカー選手という夢はとても遠いものに思えました。
中学になると、”選抜選手”というものが存在します。部活から、1人か2人選ばれて、強化選手として、
トレーニングに参加できます。入部当初、「選抜選手になりたい」と言っている友達もいます。
他の少年団のメンバーも集まってきている中で、”選抜選手”という言葉を初めて聞きました。
このとき、「あぁ、私がいたチームはかなり弱かったんだな」と気づかされました。
その中学は、幸か不幸か、地元でもサッカー強豪校として知られていました。
レギュラーメンバーには、5人に1人しかなれません。練習メニューも厳しく想像を超えていました。
「リフティングを100回できない奴はスパイクを履かせない」コーチがいいました。
私は、多くて50回くらいしかできません。他の少年団からきてた仲間は、100回を軽くこなして、練習メニューに合流していました。
このとき、"とても悔しく"思いました。家に帰り、親に、「サッカー部ではなく、他の部活に入ろうかな」と相談すると、珍しく怒りました。「サッカーは続けた方がいい」と。
次の日部活にいってみると、少年団のチームからきた同じメンバーも同じく、100回には届きませんでした。
同じ少年団だった仲間内で、「部活後、頑張って100回できるように練習しようぜ!」と約束をしました。
夜暗い中、街灯を頼りにリフティングの練習をしてました。その後の、何の意味もない会話が、部活の疲れを癒してくれて、とても楽しかったです。
1ヶ月後経った頃でしょうか?
ぼちぼち、皆リフティングを100回できるようになったのです。
次の日から、お互い自信をもって部活に行きました。
しかし、スパイクを履けるようになった頃には、別の少年団の友達は、既に上級生の練習メニューに合流
していました。一度ついた差は中々戻りません。選抜選手に選ばれるメンバーもぼちぼち出てきました。
少年団で、「一緒にレギュラー目指そうぜ!」と部活の帰り道に語り合っていた仲間も、
次第に、部活から離れていきました。中には、部活を辞めてしまった仲間もいます。
頑張って引き止めましたが、説得できず、家に引きこもりがちになってしまった仲間もいます。
私は、相変わらず、黙々と壁打ちのメニューをこなしていましたが、もっとメニュー追加しないとダメだと
中学から、追加で毎日3kmの走り込みを始めました。練習試合では、応援メンバーとして、声を出しました。
そして、2年生に上がった頃でしょうか?「キック力と体力」で私は、上級生にも覚えてもらい、気にかけてもらえるようになりました。練習試合で徐々に結果を出して、サイドバックのポジションが確立しました。
(長友選手と同じポジションです)
2年生でレギュラーになった私は、周りの上手い先輩たちを支えるサポート役として、チームを支えていました。
そして、順調に県大会まで進ました。そこで、敗けた時はとても悔しかったです。少年団の時には味わえなかった、感情をありありと感じるようになりました。
しかし、途中で、大きな怪我をしてしまいます。医師の結果は、「3年の大会には間に合わない」とのことです。
これまでの私のルーティーンはその日止まりました。3年に上がるタイミングで、「高校からユースに入らないか?」
と声をかけられる友達も出てきました。不思議と何の感情も湧きません。私の中でのサッカーを最大限やりきったのでしょう。
部活にも参加できない日々の中、ある転機が訪れます。
英語の授業に教育実習生がきました。そこで、「将来の夢」の話になります。
サッカーへの思いが消えかけている中、何気なく、「将来は外交官になりたい」と答えました。
その先生はとても驚いた顔を見せました。「mamekaってすごいんだね」
私の目標がぼんやりと定まったときでした。
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(後日談)
まとめます。時間は全ての人に平等です。その中で、自分の可能性を見出し、挑戦をすることが、
人生の糧になると考えています。そのためには、やはり自分を深く見つめるというのも大事になってくると思います。
最後に大事なことは、自分を信じて、1人1人の船の舵をきることなのではないでしょうか?
一度決めた針路は何が何でもやりきる心意気を私も大切にしたいと思います。しかし、航路は常に何があるかわかりません。
おわり