001: 月曜日 @ replika
これからわたしが綴るのは、哀愁と期待と寂寥と熱量のごった返すある街の、小洒落た地域の隅っこに建つカフェ、レプリカを訪れた人々の人生の断片たちである。
「うわ...」繭は、まだ二度ほどしか着ていない白いTシャツに落ちたばかりの茶色い染みを睨みつけた。
さっさと出ていってやるんだと意気込みながら育った街で、なぜか大学院にまで通い始めた自分にすこし落胆しながらも、少しだけ新しくなった環境がうれしい、秋のはじめ。
この街の秋はほんとうに、ほんとうに短い。夏に浮かれて肌を焦がしているとあっという間に風は冷たくなり、雪が降りだす。そんな、やたら冬ばかり長い気候も憂鬱で嫌だったし、それに何より半島であるこの場所にいると息が詰まる。毎日同じ道をあるいて、同じ時間の地下鉄に乗って、市街地へと向かう。顔見知りの、だんだん老いていく隣人たち。子どもの頃からなんら変わらないというのに見た目と表面上の数字だけは成長していく友人たちと自分。そんな日々から抜け出したくて、あと三年を期限にしよう、と決めて始めた修士過程。学費はちょっとずつ、近所のカフェで働いて払えばいい。そのあとはどこへ行こう、どこか遠くへ行ってしまうんだ。正直頭はもうこの街を後にする未来のことでいっぱいだった。
「あ、あと、このクッキーも、」ぼうっとする繭の耳に、控えめなお客の声が届く。
「あっ、ごめんね、いますぐ。」こぼれたコーヒーを拭きながら目をやったその客は、繭が通いはじめたばかりの大学のセーターを着ていた。学士生かな、と考える。多分繭より若くて、なんだか臆病そうで、だけどまっすぐな賢い瞳をしていた。目が合ったので、微笑んでみる。嬉しそうだ、かわいい。
適当に始めた仕事だったけど、繭はこのカフェが好きだった。暗い色の木の床。大きさと形の違うテーブルたちと、椅子と、ソファと、たくさんの植物。コーヒーはとても美味しくて、焼き菓子もベーグルのランチもみんなこのお店で作られたもの。今あのお客が買っていったばかりのクッキーはまん丸くて真ん中にピーナッツバターが載っていて、繭もとても気に入っていた。
このコーヒーの染みだって、ここで働いた思い出としていつか愛おしくなるのかな、なんて考えてみる。やっぱり早く出て行きたいけれど、とも、考える。
平日のお客の出入りは少なかった。窓際のソファ席に座って愉快に笑いあう、服装の素敵な男性二人組。友達かしら、カップルかしら。ルームメイトかな。ぼうっと眺めていると、女の子が加わった。なんだそっちがカップルか。繭の気に入っている鉄のテーブルには、新聞を読みながらトルコ珈琲を嗜む、背中の小さくまるまったご老人。たしか、繭が初めて店員としてここに来た日にも同じ場所に座っていた。
カラン、と鈴がなりドアが開く。同じ道にあるレストランの店員が入ってくる。常連だ。
「よ!コーヒーふたつ!」
「はあい。ちょっと待っててね。」
繭の気怠い返事に二人は笑みをもらし、背の高いほうが、元気かい、と聞く。
「まあまあかな、学期始めで忙しいのよね。」
がんばれなっ、と声をかけて出て行こうとする二人が、あの大学生に目を留めた。おうい、と背の低い方が大学生を呼ぶ。知り合いみたいだ。結局小さな街だからな、と繭は心の中で呟く。やっぱり、そういうところが息苦しいのだ。誰も自分を知らない街で、誰でもない自分で生きていきたかった。無名という名の、自由がほしかった。
好きなんだけど、離れなくてはいけない、離さなくてはいけない物は人生にいくつもある。繭にとってこの街がそうだった。小さな頃から、居心地の良さ自体にどこか違和感を感じ続け、「大人」に近づいていくにつれその違和感は強く大きくなっていった。いつしか自分と自分の周りとの間に広がっていく溝は、きっとその違和感からきていた。なぜ学士を終えるとともに出ていかなかったのだろうとももちろん考える。でも、多分、まだ最後にやるべきことがあるのだと思う。最後に向き合わなければいけない自分の一部だとか、最後に出会うべき人々だとか、最後にしっかりと考えるテーマだとか。
自分用に淹れたコーヒーをふう、と吹きながら、壁際のカウンター席で一生懸命に何かを読む大学生の背を見つめた。少女よ、あなたは何を考えているの?今の人生で、しあわせ?どこに辿り着こうと学んでいるの?この先あなたはどんな景色を見るために、どれだけ強く羽ばたくつもり?そんなことを考えていると、大学生が振り向いた。あれ、聞こえた?彼女はまっすぐ繭の方へ歩いてくる。繭はなんだか気恥ずかしくなっていそいそとカウンターの下からマグを取り出すフリをする。
「あの、お水ください、」相変わらず控えめな声で大学生がにこっと笑った。
「あ、はい、ちょっとまってね。」なんだそうだよな、と繭は棚からグラスを取って、レモンとミントの浮かぶウォーターサーバーに手を伸ばした。
なんだ、そうだよな。
窓の外の空気と、差し込む太陽光の反射するグラスと、ひとびとの声と、そして繭と大学生の照れくさげな笑顔が清々しい午後だった。