1995年1月17日 後編
和菓子屋で10年の修行を経てお店が6周年になりました。
毎年この時期に放送される阪神淡路大震災
その私の3日間のお話後編です。前編はこちらから↓
ひたすらテレビをみるしかない
ほんとに燃えてた…お気に入りの服が…とちょっと違ったところにショックを受けながらずーっとテレビを見ていました。
アパートからとってきた自転車はかなり活躍したみたいでみなさん助かってると喜んでもらえました。
「家の人心配してるだろうね…」と言われ
「直ぐ電話できたんで大丈夫ですよ!無事は伝えてますから」というと「え?電話繋がったの?」と
「今電話まだ繋がらなくて公衆電話が長蛇の列なんだけど!迎えにきてくれるとかなんか言ってた?話した?」
「あ…すぐ切りました」
「切ったの!?笑笑 そっか…」
後に大激怒を喰らう羽目になったんですけどこの行動が。
その頃電話繋がったにも関わらず話もろくに聞かずに切りやがったアホな娘は死んだに違いないと家族はパニック状態だったらしく、死亡欄に名前がないか、捜索願を出すかどうか、遺体を探しに行くかどうかなどかなり祖父母達と揉めてたらしいです。
祖父母はあの子は生きているからそのうち連絡が来るはずだと。
両親はあいつはアホだから逃げ遅れてるに違いないと口論してたみたいです。
そんなにもめてるとも知らずにそのころ私はひたすら夜までテレビを見ていました
夜の会議
「もしかしたら夜ここから避難するかもしれないからもう寝ようか、避難する時は起こすからそれまで寝てていいよ!」
「あ、男ばっかりだけど心配しないで!変なことするやついないから!!ちゃんと淡路まで送り届けるからね!」
いや、全くそんな心配すら思いつかなかったですけど…
夜横になってると声が聞こえて…
「どうやってあの子送る?情報が全く入ってこないからわからないけどフェリーとかやってるのかな?」
「他の地区はどうなんだろ?とりあえず岡山から四国に回るか?」
「そこから車で淡路に入る?」
「あ、なら俺連れて行けるわ!!」
と私をどうやって送り届けるかの会議してる様子でした。
ああー迷惑かけてるなあ…長い1日だったな…今日はもう疲れたなぁ…と眠りにつきました。
1995年1月18日
「おはよ!まだ寝ててもいいよー昨日疲れたでしょ?今日もしかしたら車で移動するかもしれないから。」
ああ、夢じゃなかったんだった…とムクリと起き上がりまたテレビを見ていました。
「昨日話し合ったんだけどここから車で1時間くらいのところに会社の施設あるからとりあえずそこに行って電話しよう!迎えに来れそうになかったら淡路まで送るから!」
「あの…すみません…なんか迷惑かけて…」
「いいの!いいの!そんなこと気にしないで!!」
救援物資があまり手に入らず水も出ない状況だったので、とりあえず米あるから洗わずに炊くかーと炊いて。
「おにぎり作れる?」
「できますよ!」
「ええ〜?ほんとに〜?笑笑」
「こう見えて高校生のときは自分でお弁当作ってましたから!!余裕です!!」
「ほんとだ!うまいねー!」
無洗米でもない米を洗わずに炊いたらものすごく臭くて食べられたものではなかったけど、何もなかったので皆でそのおにぎりを我慢して食べました。
移動して知る現状
それから車で移動してる時に街から離れれば離れていくほど別世界のように普通の日常が展開されていることに皆驚いて。
少し離れただけでこんなに違うの?普通に店開いてるじゃん…とすぐ弁当屋でみんなでお弁当食べました!
あの朝のおにぎりは一体!?
被害も少なそうであまりにも変わらない日常の光景にただ驚くばかり。
こんなに違うの?離れただけで…みんなもう神戸全体が関西全体があのような状況になってると思ってた。
施設についてから家に電話してもなかなか出ず、やっと夜になって繋がると
仕事してたから家に誰もいないよ!どこにいるの?とやっと連絡が取れ、施設から近いところに住んでた叔母に電話してもらい迎えにきてもらうことができました。
叔母は生きてた!!よかった!!ありがとうございました!!と何度も頭を下げてお礼を言ってくれました。
「よかったね!どうなるかと思ったけど元気でね!」
ありがとうございましたと叔母に連れられて彼らとお別れしたのでした。
1995年1月19日
それからお風呂に入らせてもらい、ぬくぬくのベットでやっと安心して眠ることができました。
叔母に送ってもらい、淡路に着くと父が迎えにきていました。
「ただいまぁ!」と感動の再開かと思いきや
「おい、お前なんであの時電話切ったんや?」とご立腹の様子…
「電話?えっ?会話終わったから?切ったけど?ええ?」
「どうやって逃げたんや!!どう言うことや!?なんで電話切ったんやぁぁ!!」とずっと車の中で怒られてました…
家についても家族からなんで電話切ったんや!!電話切るなよ!!絶対切るなよって言うたのに、うん、わかった!じゃ!って切って…どうしてたんや!?と質問攻め。
あの時家族はどうやって逃げるかとかどうするか考えるからとりあえず電話切らずにそのままでいるように何回も言ってたらしく、ふん、ふんと聞いてるのかどうなのかわからないような返事でじゃあって切れてしまい、すぐかけ直すも全く繋がらなかったそうです。
あいつはほんまもんのアホやった…1人でどうするつもりや…向こうはどうなってるんや??と、それからテレビでの映像見て、あ、死んだなと思ったらしい。
「みんな死んだと思って大変やったんよ?お父さんもあんたが行方不明の間ごはんも食べないし…お母さんは食べてたけど笑」
そっかそんなことが…そんなに電話のこと怒られるとは!
こうして私の3日間が終わりました。
それから
落ち着いた頃にアパートが改装されるから中の荷物を綺麗にして欲しいと今度は家族でアパートへ向かいました。
神戸に着くとテレビで見るよりも酷いな…あんたはこんな中に1人でいたんやね…と
そしてアパートに着いて部屋を見た家族は絶句してました。
エアコンは焼きただれて落ち、中は真っ黒なススだらけ、ところどころ焼けた家具や毛布、服、散乱した室内…割れたベランダのガラス
あまりの違いに言葉を失っている様子でした。
こんな現状だったとは…
それからはもくもくと後片付け。
近くのバイト先だった喫茶店へご飯食べにいくと
「生きてた!!心配してアパートに行ったんだけどいないし、しばらく周りを探してたのよ!よかったあ…生きてたあ!!」と再会を喜んでくれました。
しばらくは実家にいたのですが教習所にも行きたいし、ローン組んでしまったしで、もう一度神戸で1人暮らししたいと両親に頼みました。
まだ3ヶ月くらいしか経ってなかったので
あんな目にあって、散々心配かけてまた1人暮らし?怖くないの!?と言われましたがなんとか説得して再び1人暮らしを始めるのでした。
私のヒーロー
あの時声をかけてもらえなければ、やはり私は何をしていいかわからず部屋にいてまた二度寝なんかして一酸化炭素中毒で死んでたかもしれない…
あの方は自分も家族が心配してるだろうあの状況の中で声をかけてくれ、最後まで助けてくれました。
実は小学校に着いた時、もう1人と落ち合ってみたいでその方は私を見て、その子はここに置いていけと言われたそうなんです。声かけてくれた方はそれはできない、最後まで自分が面倒見るからと連れてきてくれたそうです。後から他の方が教えてくれました。
ちなみにですが、声かける前に私がキョロキョロ、ウロウロしてて、この子さっきから何やってるんだ?と様子を伺ってたらしいです。
そして思い切って声をかけてくれたそう。
落ち着いたらお礼したいので連絡先教えてほしいと頼んだんです。
そんなふうに思う必要は全くない、お礼もいらない、そんな大したことしてない、何も気にすることないからと断られました。
すごい人だったな…あんな大人になりたいな、私もあの方くらいになってもあんなことできるようになってるだろうか…
今あの方の年齢をとうに超えてますが全くできそうにありません。
いつもこの時期に流れる震災のテレビをみると思い出すのです…あの時助けてくれたヒーローのことを…
最後に
アパートを片付けたのを最後に私は再びあの街を訪れることはありませんでした。
今も思い出すのはあの綺麗な夕日とともに見た最後の景色と一瞬で消えた焼け野原のような街並み。
もうあの頃の面影もないくらいに変わったそうです。
これからもそこに行くことはない、上書きはしないつもり。
もしかしたら死んでたかもしれない
この経験は若い私にはかなりインパクトのある出来事でした。
当たり前に明日が未来があると思ってた…もしかしたら少し何かが違っていたら明日が来なかったかもしれない…
これを機に何かが吹っ切れたようにやりたいことは今やろうと突っ走るようになったような気がします。
あんまりこの頃と比べて成長したような気が全くしませんが…
あの時から夜電気を消して寝ることができませんでしたがここ数年でやっと暗くしても寝られるようになりました。
自分の中で何か一区切りついたような気がしたので書いてみました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
あれから28年、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします
2023年1月17日