レポート 現代美術入門/鷲田めるろ
先日、キュレーターの 鷲田めるろ 氏の「現代美術入門」に参加したのでまとめていこうと思います。
穏やかな方で、思慮深くことばを選びながら話す姿が印象的でした。
鷲田めるろ氏といえば、先日いろいろな問題が起こって話題になった
あいちトリエンナーレのキュレーターをしていたことでも知られています。
世間ではすっかり忘れさられた感じがありますが、その後もあいちトリエンナーレをめぐって色々な方向に議論が展開されています。
↓ リンクは本人による、現代美術感の垣間見える記事です。
↑ についてまとめると
・《平和の少女像》展示を受けた今回の対応は恣意的で説明不足。それは、外部の脅迫に屈し、政府の意向に沿った展示しかしないという姿勢だ。
・文化発信が御用美術の宣伝だと受け止められてしまうと相手にされない。
・今日の美術館は、お上からの教育でなく、多様な表現に触れる、相互的、主体的学びを支援する場所。機会を失うことは、社会全体にとって大きい損失。文化庁がすべきことは何なのか。
と、
ちょっと寄り道をしてしまいました。
それでは本題に移りましょう。
■3つのキーワード
・同時代を共有(同時代性)
ドローンが作品に登場するタイムリーさ。その点で古典よりも理解しやすい。その時の政治や社会問題と強く結びつき、最新技術を含む時代感への視点と知識を得る、あるいは意見交換のきっかけを提供する。
・多文化との結びつき(サイトスペシフィック)
権力者からの一方的な価値観の普及から、人と人の文化/知の交流へ。アートはそのプラットフォームとして機能する。
・異化と没入(クリティカル)
ある装置によって視座を得る。客観的・批判的に見る姿勢。
例)はだかの王様、ブレヒト「叙事的演劇」、デュシャン「泉」
■同時代性
生活者の視野の遥か外から私たちを一方的に偵察できるドローン。この作品は近隣の高層ビルからのぞき込むことで、その視点を疑似体験できる展示方法になっています。
こういった作品があるように
作品の背景、時代感をある程度最初から共有している現代美術は、
理解するために専門的な知識が必要な古典よりも
わたしたちにとって理解しやすいものです。その理解の仕方も
旧来の、王様、政府、教会からの一方的な価値観の教育、普及から
昭和以降、作品とその場を介しての、知の交換、交流へと変化しました。
作品理解の知識や視点を、知っている人が知らない人にコミュニケーションを通して伝えたり、あるいは個々で異なる背景やそこからうまれる視点を交換し合ったり。しいては国家の枠組みを超えて、人類として共通の課題に向き合う。
美術館や美術展、作品のありかたは、その場をつくるためのプラットフォームになったのです。
ひとつの見方としての最新技術や新しい価値観に触れる機会、それがどういうもなのかをあらためて考察するきっかけを提供しています。
■多文化との結びつき
旧来(中世まで)は普遍的な「これが美術です」という価値観が、その時のトップのからおりてくるかたちで教育、普及されてきました。ところが、
今の世界は、様々な文化が優劣なくそれぞれのかたちで存在しています。 それは「それぞれの美術」が存在するということでもあります。
現代美術は、その文化を象徴する美術作品、目を向けるべき課題、多様性について「いかに理解するか?そもそも理解できるのか?」を問います。それは「自分の所属するグループの外をどう理解するか?」ということでもあります。
文化の違いやその存在を知ったり、その理解の仕方を交換したり、
それらが、どう自分たちにかかわっているかを思案する。
わかりあえなさ をどうとらえるか、という現代美術からの問いです。
作品を見てみましょう。
スゥ・ドーホー「コーズ・アンド・エフェクト」
「民衆美術」の作品です。光州事件(1980年韓国)が背景。国と民が対立し、蜂起が起こった背景が色濃く反映されています。
シャンデリアのようでいて、うねるように連なる物体は、兵隊の人形の重なりです。国が民衆を動員する無常さ、その反面、力強さも感じられます。
平和の少女像 キム・ソギョン-キム・ウンソン
少女は何を見ているのでしょうか?出来事の記憶は形を変え、また私たちの前に現れます。それは一体、誰にとっての、どんな記憶なのでしょうか?
■異化と没入ー批評性
飯川雄大 デコレータークラブ ―ピンクの猫の小林さん
デコレータークラブとはカメレオンのように擬態をする蟹の名前です。
小林さんは目を引く色、サイズ、sns映えしそうな存在感でありながら、その蟹のように巧妙に都市空間に擬態します。鑑賞者にはその存在感が痛いほど感じられるのに、いざ伝えようとすると、どうでしょうか?
うまくことばにできない・・・、全身が見えないせいで写真映えしない・・・ と とらえられそうでとらえられない。
この作品は、野良猫を写真に撮ろうとするけど、そういうときに限って逃げてしまう。その態度、距離感、とらえ難さから発想されたそうです。
こういった、コントロールできそうでできない感じ、何か自分のアクションで解決できるようなできないような感じ。それを説明するには 異化と没入 の概念がキーなのではないかと思います。
異化と没入とはーーー。
観客が演劇を見るとき、意識しなくても舞台と現実は別物という暗黙の壁があります。しかしながらその場では現実であるかのように没入し感情移入します。
しかし、それは別世界の出来事なので、見終わった後は当然、元の現実の生活にもどり、日常は変わらず続いていきます。
劇作家のプレヒトは演劇にはそれを変えられる力があるのではないかと思いました。消費して終わるだけではなくて、もっと現実に影響するべきだと。それに気づいてもらうためにフィクションであるとほのめかす作品作りをしました。
同じ批評性をもった作家は絵画の世界にもいます。
キャンバスに描かれ額に入った作品、それをしかるべき場所に展示し、しかるべき鑑賞方法、よき視点で見る。
そこに作品で異議を申し立てたのが デュシャン と フォンタナ です。
彼らはなにをやったのか?
それは、固まった価値観を意識させ「美術とは?」と議論を起こさせる。 美術を成立させるための仕掛けづくりとしての作品発表です。
誰もが知っているお話で例をあげると「裸の王様は裸だ」というのに近いと思います。子供には暗黙知やお約束は通じないので指摘できる。けれども大人がそれを意識的にやっていこうという試み、問題提起が現代美術なのではないでしょうか?
■Q&Aコーナー
・現代アートに感動することはあるの?
没入タイプの作品は感情移入できるので感動しやすい。でも、小説、音楽、ドラマとかのほうが感動しやすい。
異化タイプの作品は頭で考えてみるので、裏を暴くような感じなので、没入と違って感心に近いと思う。
・めるろさんの鑑賞体験を教えてください。
一度見たものをしばらく時間をおいて見返すと、その間に別の経験を経たことで見え方が変わることがある。その現象が、自分自身を見ているような気持になることがある。そんな体験が醍醐味と感じる。
・作品解説で心がけること
鑑賞者の見えるものからスタートして、そこに戻ってくることを意識する。
見てるつもりでも見えていないことがたくさんあるはず。みんな目線が違うから、意見やバックグラウンドを交換し合うことで見えていなかったものに気づくことができれば成功、うまくいった鑑賞、と言えるのでは。
大学の講義、レポート、論文では、まず生徒の主観を記述(ディスクリプション)それをベースに情報で補完する方法をとっている。