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わたしの日常は、あなたの非日常。

 夫(ASD傾向)とのコミュニケーションに齟齬を感じてから、ASDとは何か?を追ってきた私ですが、お互いの欲求の根本で、快/不快に分かれる大きな違いがあって、そこには『ペルソナ』の有/無が深く関係しているのでは?という仮説です。

コミュニケーションに対する夫の不快と、私の快

 Twitterの相互さんで、ASD当事者として発信してらっしゃるHOTASさんに、先日、こんな疑問を投げかけられました。

 この質問、とっても難しかったんです。

 何故なら、自分と考え方の違う他者と相対した時に不安や恐怖…でなくとも、トリガーのような取っ掛かりが、自分の中に見当たらなかったから。
 思春期の多感な時期や、気の合わない相手とのやり取りに不快感を感じる経験はあっても、少なくとも自分で選んだ人間関係である、気の合う友人やパートナーに対しては、勿論自分にはない感じ方や気持ちがあるのだろうと思うからこそ、「どのように考えたり思ったりする人なのだろう?」という好奇心しか自分の中に見当たらないわけですよ。

 それで一晩頭を捻って言語化したお返事の一部が、これです。

『心の理論』を獲得してるから人に興味を持つ…のではなく、分離した他人と、ペルソナを介して「本当の自分」を知りたいから、心の理論を獲得するんだと思う。

そしてコミュニケーションで、「あなたってそういう人なんだ!」を交換こして自分を知っていく作業は、「快楽」としか言いようがない…。

「自分を知りたい」という欲求は、人類共通だと思うんだけど、その方法が「他人とのコミュニケーションを介して知りたい」の欲求を持つのが多数派なんじゃないかな?

でも他人の鏡をわざわざ通さずとも、素の自分で存在できてるのがASDで、直接「自分の興味ある事をする」ことで自分を知りたい人たち…と感じる。

 ペルソナという言葉は、よく仮面で形容される『対人用の自分像』"外に向ける自分"として私は使ってます。つまり、人格やキャラクター部分の事で、これ私は自我と呼んでる部分だとも思うんですが、初めて出会う自分以外の他者が母親だとすると、産まれてすぐまでは母親という他者の鏡を通して、真似をし、更には家族、友人、学校の先生…と社会を広げ、自分を確認しながら「自我」を鍛錬していくのが所謂、定型的な発達過程だと思うんです。

 つまり、私はペルソナが自分と地続きの感覚なんですが、ASDと呼ばれる、夫のように自閉傾向の人たちというのは、他者とやり取りせずとも「自分そのまま」で存在していて、人と関わるためのペルソナを作るよりも、自分の関心事に直接興味が向いているように感じます。
 もしくは、生育環境の問題で、「心の理論」の獲得が叶わない場合もあるでしょうけど、先天的か後天的かの判別は難しく、人によると思うので、私にはその辺の専門的な事は分かりません。

 質問の答えには、一応なっていたみたいでホッとしましたが、この時すごく感じたのは、たったペルソナ文化の「有/無」の違いだけで、お互いに分からない部分を拾って、答えを与え合うのが非常に難しいという事でした。何しろ、お互い相手の分からない部分は、自分にとってはあまりに当たり前の部分だからです。
 だからこそ、この話は、すごく深い潜在意識にあって、ペルソナを使ってる事が社会一般では当たり前すぎて、わざわざ定型発達の人たちが、『自分はペルソナを使っている』なんて改めて認識し自覚する必要がない事が、ASDとの齟齬をなかなか解明できない原因になっているのではないかと私は思います。

 生まれた時から、ペルソナという仮面込みの自己を鍛錬してきた自分にとっては、それを大好きな人と見せ合って、エピソードを共有し、日々の小さなドラマを共に紡ぎ、重ねていく過程は快感であり、至福です。それこそが、『心の理論』獲得への自然な欲求に繋がっているのではないかな?と私は感じています。
 だけど、他者とのコミュニケーションを通して鍛錬する文化のない夫にとっては、「あなたはどう思うの?」なんて聞かれるたびに、自分の中で感じている事はあっても、それを人とやり取りする用の言語にする事が困難すぎて、苦痛でしかないようなのです(心理的に嫌と言う意味ではなく、私の欲求に応えたくても困難という意味で)。
 誰しもが、ペルソナを持っているのが当たり前だと信じて疑わない様子だった私に、夫は自分には仮面がないとバレてしまう恐怖、そして、相手が自分に何を求めているのか分からない不安は、一緒に居たい大切な相手ほど、キチンと自分の実感として理解して、自分の言葉として伝えたいからこそ、強く出るとのことでした。

 そして、ペルソナを鍛錬するために「心の理論」というのがあると思うんです。これって自分というキャラクターや自分の人生ドラマを演じるための手引きのようなものなんじゃないかなと。「空気を読む」だとか「暗黙の了解」とかいう部分ですね。夫は頭で考えて理解していく感覚ですが、私は色んな人と関わり人間関係に揉まれる中で、自分の感覚の延長として学習してきたんだと思います。
 目の前の相手はどうすると不快になるのか?喜ぶのか?どう振る舞えば上手く相手とやっていけるのか?と、自分自身の感情を調節しながら、ほとんどの意識は「周りと自分」という他者を含んだ自分に向けられていたという感覚があります。勿論これは、あくまでも私個人の感覚ですが、きっとASDの特性が腑に落ちる前までの私は、『人間関係』に一番興味があり、拘っていたとも言えると思います。ただそれは、世間一般的な無意識も「人間関係」という群れの感覚がベースになっているから、敢えて『拘り』とは呼ばないのだろうと思います。
 一方で、夫のように、人間関係には拘りがなく、自分の好きな「洋服」や「音楽」など趣味の話や言いたい事を一方的に目の前の人に話してしまう人たちは、「拘りが強い」という印象を与えてしまう…何故なら、定型一般が一番興味を持つはずの「人間関係」をすっ飛ばして、自分の興味関心事を優先するからではないかなぁ?と。

 とにかく私が、"夫婦関係"という人間関係上で、夫に夫役を求めていた頃は、そこに応えてくれない不安や退屈、苛立ちなどの感情が私の根底にあって、夫にも不安を与え、やり取りがギクシャクしていたと思います。
 この「人間関係」への無意識な拘りに、多数派が気付くのって、とても難しいと思うんですよね。

思ってる?思ってない?

 夫の「どう思っているか?」を言葉で聞き出すのは、なかなか困難です。
 ペルソナを使って他者とやり取りするのが習慣だった私としては、この『思ってること』がなかなか出てこないという状態は、「自分の意見がない」とか「自分、自我がない」と受け取ってしまいがちな部分です。じゃあ、ないのかと言うと、勿論あって。あっても自分の外に取り出すのが難しいみたいなんですよね。思っている事を言うのは、一般的にも苦手な人は多いので、ここが程度の問題なのだと思いますが、夫の場合は意図して出したくても、出すまでに時間が必要です。

”捉える”
『物事が起きる』→『感じる』→『思う』→『表現する(言う、行動する)』

 この流れは、一般的に『捉える』と呼んでる部分を細分化した私のイメージです。

 例えば、雨が降ってきたとして、五感を通じて情報を受け取ると「感じ」ます。そこから「気持ちいい。雨も悪くないなぁ」とか「濡れちゃう。嫌だな」などと感覚を言語化した「心の理論」に結び付くと「思う」になり、他人と共有したければ「話す」に繋がっていくと思うんですが、この言語化される前の感覚の世界である「感じる」と、「思う」が社会一般的に区別がついていないのではないか?と感じるんですよね。「◯◯だから〜と思う」これは、感覚ではなく頭で考えたロジックですよね。
 恐らく、夫のようにペルソナを通した他者とのやり取りの文化がない人たちは、この「思う」の言語化が困難だったり、できても、感じ方受け取り方が一般からかけ離れていて、すんなり受け取ってもらえる経験が少なかったり、元からその欲求が薄かったりして、様々な要因で人に「表現する」に行き着くのが困難なのではないかと思っています。

 だから、言語化される夫の物事に対する「捉え方」の情報量が圧倒的に私は少なく感じてしまうわけです。ペルソナ文化に馴れ親しんできた私としては、何でも心を開ける関係なのに、この「表現」がないと意思疎通ができないと強く感じてしまい、不安になります。だって相手の「捉え方」を知る事がペルソナの鍛錬には重要な道具だから。
 じゃあ、夫は何も思っていないのか?と言えば、「思う」の表現が困難なので、「感じる」→「行動」と言うパターンになります。これって所謂「思う」がブラックボックス化され、無言のまま動くので、私の読解力と二人の間の信頼関係が問われるわけですが、なかなか他人である以上、そこを正確に汲む事は難しいわけです。やはり二人で決めなくてはいけないような重要な局面では、頑張って言語化してもらわないと困るので、よく寝て頭を休めた翌日、LINEに文章で送ってもらうなどしています。

 でもここで、もう一歩踏み込んで考えてみると、物事を「心の理論」に当て嵌めず、感覚そのままに「感じる」力は、一般社会全体が衰えているところなんじゃないかな?と、自分の事も含め思うんですよね。言葉は勿論、他者とのやり取りにとても便利なツールで、表現手段としても優秀なのだけど、言葉ありきの理屈に偏ってしまうと、私はなんだかすごく感受性に乏しく味気ない気がしてしまうのです。

ASDを通して見えてくること

 つまり、感じた事を外に向けて表現する手段は「言語」だけではないはずなんですが、ペルソナ文化が当たり前の定型社会では、言葉のキャッチボールである『会話』が主流ですから、言葉がないだけで「自分がない人」だとか、受け取る側も思ってしまいがちで、仮面を持たないASDの人たちは無理くり自分の血が通っていない『お面』を作る羽目になってしまう。これって、本当に認知の異文化同士が、騙し合い、苦しめ合ってしまう事ばかりで、どうにかならないのだろうか?もっとこの辺の認識が社会一般に広まってくれるといいなぁと願ってやまないです。

 それと同時に、私自身は一体どこまで、本当の自分の感性に忠実に仮面を作れているのだろう?という事も考えさせられるんですよね。

 言語優位になると、感覚(右脳)ではなく頭(左脳)を使うので、ASD / 定型限らず、余裕のない社会全体が頭を使いすぎていて、自分の感覚に疎くなってしまい、正確に自分の「感じる」を受け取れないまま「思う」を紡ぎ出したり、どこかから借りてきて切り貼りして済ませてしまっているのかも知れない。それってもはやASDかどうかは関係なくなってくると思います。どこまで私自身も、ドラマや映画、テレビ、ネット、他人の会話、どこかで見聞きしたステレオタイプではないオリジナルの感性で表現できているだろうか?と。

 「思う」はロジックで、「感じる」は直感。ロジックは何パターンでも作ることができますが、直感は一つです。ペルソナを通した「思う」の交換も勿論とても楽しいものですが、私個人的には、「感じる」から「表現」の間には、人に伝える手段は言語だけに限らず、実はもっとたくさんあるのだと思います。すぐ、直接的に伝わらないとしても、芸術表現は特別視されがちですが、上手い下手など関係なく、何かを作ったり、ただ自分の好きな物に囲まれて、日常を暮らすというのだって、立派な自己表現だと思うんですよ。
ペルソナを使わない「本来の自分」で生きている夫に触れて、もっと「感覚」の世界を信じて、広げていきたいなぁと、私は思うようになったのです。

 あれ?ここまで考えると、自分を知りたいための仮面て必要なんでしょうか?何のためなんでしょう?と分からなくなります。
 でも私は、今まで馴れ親しんできた文化も大切にしつつ、新しい文化の価値観に思考をアップデートしつつ、夫にも少しずつ「心の理論」を学んでもらっています。
 たぶん、今の私は、あまりペルソナという仮面を使った人間関係への拘りがなくなっています。自分の興味関心事を通して、自分を知り、あっさりとした人との関わり方も、アリだなぁと感じる今日この頃です。


 最後になってしまいましたが、ペルソナではなく『お面』という表現やASD的な視点は、HOTASさんのこちらの当事者目線の記事を参考にさせてもらいました。併せて、一読される事をオススメします!

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