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「人間らしく」考えたい

急に寒くなったけど、皆さまお元気ですか?
はやいもんで、11月です。
今日訪れた文具屋さんでは、綺麗なクリスマスカードとポチ袋が
大々的に展示されてました。

一年っていう区切りも、
よく考えたら不思議なもんです。
昔の人は、ほんとにすごいですよね。

昔の人たちの積み重ねてきた、事やモノの恩恵に授かっている私達、
それがあってこその 今であります。ありがたいわ、ほんとに。

今世紀は情報の時代、と言われてきましたけど、
私達ヒトは、もっと、も-っとずーっと前から
知る、考える、行動する、伝える、に取り組んで
生き繋いできた。
ちょっと考えてみたい。

最近、人間がスマホに踊らされ、使われている、かのような
ニュースが多い。というか、止まらない。
身体全体と、その一部である脳が、スマホに席巻されている。
ストッパーが利かなくなっている車輪みたいで、
馬鹿と鋏は使いよう、と言いますが
道具は、道具であるかぎり、
使い手が 道具の支配者であらねば。
道具に滅ぼされてしまっては、元も子もないよ。


じっとしてない世の中は、これまでも
変わってきた。
今を生きる者たち それぞれが 自由に、深く考え、
謙虚に、堂々と、
変わっていくこと、
変えていくことを恐れず、
様々であること を受け容れる。が、流されない。
それが、繰り返されて
今も そう なんですよね。

現代に共に在るのも、有難き偶然。
今に至るまでの 先人の歩みを敬いつつ、
ここから、先に どう進むのか?

温故知新と人工知能、データ利用、どっちも両脇に抱えて
我々は人間らしく 人類史をすすめられるか・・

専門家でもないのに、エラソーにアレですが、
ちょっとしたことで、
流れが変わるってことも、まあ あるじゃないですか・・
意味ない事かもしれませんが、よかったら以下も見ていってください。

この頃は、日本人である私が知らない観光地?を、外国人観光客に教わる
ってことも多い。
アジア的眺めだったり、寺社仏閣、貴重な木造建築、和食や相撲などの日本文化体験を、かなりオリジナルにやっている。
特に欧州の人達は、中国とも、他のアジア地域とも全く違う風習や歴史なんかを、勉強してきているようで(其のソースがちょっとおかしかったりもします)恐れ入ることもある。
暑くても大行列に、黙って並び、話が通じなくても、怒ったりしない。
もっとも、スマホ翻訳すればいいので、大体のことは なんとかなる。
便利ですよねー
鉄道の予約も、宿の予約もできちゃうし、カードもスマホに入ってるので、
金勘定もなし。ホント楽。
私達が他国を旅するときも同様に、予め スマホに情報を入れて、予約もして、マイペースに旅ができる。
修学旅行生も、そんなんでしょうね。
ただ、日本の小中学生の場合は、自分たちの歴史を学ぶ機会として
学習の一環である。
スマホって、未だ禁止なんですか?
まあ、動画とか、制限なく見られますし、変なアクセスもありますし。
それに、
chatGPTで、それなりに感想は書けますし。
非常に便利な道具で、かなり頼ってしまいがち。ですから
ちゃんと話をして、使用域を制限するのは、当然かな。
それは、そうなんですが、
市場原理で、道具としての機能性は上がる一方でしょうから、やはり、
人間の脳が、いちいちストップをかけないといけないだろう。

人間が、人間の体を使って出来る事 のなかでも、
考えること、動くこと、と表現する、というのは、
手放したくない。少なくとも 私は。
GPTの方が、素晴らしい表現が可能だ、としても。
人間の方が、間違いばかりだ としても。
GPTは、道具なんだ、スマホは道具であり
私達が支配者、ということを
身体で感じ、心に刻み付けるべきだと思う。

古きを訪ねることが、科目の学習である限り、
心の動きの伴わない、歴史の表面的な理解になってしまうのは、
仕方ないこと、なのかもしれませんけど、

私達と同じ人間が、
過去の時代の構造、縛りの中に在っても
苦しみ、工夫し、壮大な建築、絵画彫刻、染、織、
更には、詩や歌や
慣習や国家のシステム、など、多くのモノを
作り上げてきたことの「素晴らしさ」
だけでなく、
これが私達の源流、今に至るまで続く道で、
今も続いているんだってことを
意識できるといいよなあ、って思ったんです。
「色んな人が、色んな人生を生きてきたんだ。」
「こんなすごいものを、ほんまに人間が作ったん?」
AIも「canva]もないし、3Dプリンタも、グーグル翻訳もない、
巨大クレーンも大型船もない、なのに

人間には出来る、と心に灯をともしてもらえばな、と。


それにしても
個々の人間の持つ力

見る力、感じる力、信じる力、実行力、といったものは
昔の人方が、高かっただろう、
勿論差はあっただろうが、総じて高かっただろう、と思わずにいられない。

社会構造は固まっていて不平等ではあったが、
冷たいだけの社会、ではなく、
慣習は、強要されるものではなく、
そこに心がある、というか
根底に温かみがあった、のではないか。

以下、幕末のころの、介護に関する人気記事をご紹介します。

これは、日本の、当時の、いわば恵まれた階級の一部の家族の、介護のカタチでありますが、
親を大切に思い、最期を看取りたい、という気持ちが、人々の中に通底している、からこそ、
職場でも自然にエクスキューズしているようで、
それが、人間の心の大きさであり、
心が生きやすい社会なんだろうな、と感じました。

ロクに親の介護もしていない私が、言えたことではありませんが、
父の最期を看取れなかった、という後悔と、自分を責める気持ちは、
1年経っても、ずっと私の中にあります。
職場のせいではなく、私自身に意気地がなかった、覚悟がなかったのです。
この記事は、私にそれを気づかせてくれました。


なんだかんだ言っても、和の心は、今も 日本人にとって大事。

しかし、

日本社会に 西洋的合理性が流れ込み、とってつけたように応用され、
戦後は、宗教がタブー視されて、まるで腫物になり、
自分を守ることに キュウキュウとして、心が、小さくなってしまったのかもしれない。

親と子が会話するのも、ほぼlineだったり、
成長期の、心が不安定な時期に、
大事な気持ちや、言葉の温もりを、
家族間でやり取りするのでさえ、難しくなっていたりする。

大丈夫か・・

闇バイト、が止められない。
高齢者を襲って、奪う・・
卑劣だと、誰しもが分かっていることが、
何かの力で、無理強いされている。

逮捕報道しようが、末端の小さな葉っぱが落ちていくだけで
むしろ、葉っぱが気の毒に思える。
なんでこんなことになったのか・・本人も困惑しているという・・
「人間らしく」ない。
「人間らしく」考えられてない、ようだ。

社会の中の人間同士は、
心の底で、つながっている、みたいなことは
なかなか ヘンな話でありますが
みんながこわいこわい、と思っているのが
よくない、と思うんです。
すぐに、守るために行動できないか?
ご近所で、家族で、親戚で、
できるだけ一人にしないの。ダイジョブだ、ってご本人は言うけど
ダイジョブじゃないの。

誰にも人権とか、所有権とか、エクスキューズがあるとしても
ある程度、コミュニティで可能な事はないか?
首長が、腹決めてやってみたらどうでしょう。
大きな社会問題が、ここにきて、いきなり顕在化した、のです。

だれにも老いは来る。
人生の締めくくりの、穏やかであるべき時間を どうか奪わないで。


効果的な対策を、少しでも早く、と願います。
おさんぽババアでした。

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