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孤独と自由~亡父のことなど

早いもので、令和6年3月末、年度末です、皆さん、お疲れ様です。
彼岸の頃は、三寒四温。
数日の間 雨が続き、寒いと思ったら、急に暑いくらいに晴れたり。
桜の開花も、気まぐれな春の空に翻弄され
なかなか大変らしい。
といっても
開花予想や、花見の予定が立たない、など
当の「桜」ではなく、観賞させて頂く側の人間が「大変」なのであって
桜の木は、
寒くても暑くても、内側で、咲くための準備を静かに続けている。
植物の力強さ。
「我は孤独なり。我は自由なり。我は我自らの王なり。」
エマニュエル・カントの言葉は、
じっと、一つ所に立ち、内側に時を刻みながら営みを続ける 樹木の在り方でもある。

父が亡くなって、2か月が過ぎた。
まだそんなもんか。長かったような あっという間の様な。
施設に入所して、ちょうど1年だった。

亡くなる1週間前から、せめて最後には、父を家に帰してあげたいと、
仕事を休んで、片道3時間かけて通い、父母の暮らした家を
飲まず食わずでモーレツに片づけ、掃除した。

老父母は、そこでなんとか生きていたわけだが、
父が最期まで、自分の拠り所と、こだわっていた家は
その内側に、ゴミと埃とカビとゴキを抱え
庭は落ち葉やゴミ、雑草に覆われていたが、
文句も言わず びくともせずに そこにあり続けていた。
節分の前の週頃には、沈丁花が芽吹き、雪柳が蕾を膨らませ
アカメガシが新芽を伸ばし、何事もなかったかのように
いつも通りに 小さな庭に小さな春が訪れようとしていた。

家に居たい、夫婦二人で居たいと
施設に入ることを嫌がり、子の怠慢だと、私を責め恨み続けていた父。
娘の私を疑い、信じられないにも関わらず、がしかし、
「嫌いな」私に頼らざるを得ないことも大いに不満だった父。

思うようにならないことばかりで、排泄すら、ままならなくなっても
自分自身の王であること、
自分の考えしか信じないことを手放さなかった。
私なんぞには、意地でも従わない、好きなようにする、
自分は偉い、お前はバカだ。
孤独でも構わない、自分は自由だ、動けないとしても。
最後までその態度を崩さなかった。
私には、そう映ったが、
本心はどうだったのか、もはや確かめられはしないのだが。

樹木のように
そこにあり続け、年輪を刻みつつ、生まれ変わることが
できるなら
「片足ダチョウのエルフ」のように
守りたいものをこれからもずっと守れるなら

父は母の傍で、葉を茂らせる樹でありたかったのか。

人間の場合は、樹木のように生き続けることはできない。
だから
思いを託す、思いをつないでいくしかない。

記憶と共に在る 「家」が
思いを託され、繋いでいくのかもしれない。

認知症が進んだ母は、父が亡くなったことを
どうかすると忘れる。
それもこれも、なんでも直ぐに忘れ、適当に嘘をついて
かなりいい加減に生きている。
でも、なんだか元気だ。気のせいかもしれないが、、
施設での一人暮らしが嫌でたまらないって感じではない。
ひょっとすると
父の想いを、知らずにではあるが 受け取っているのかもしれない。

私には、父の思いは、何も感じられないけど
私にできることを続けようと思う。
母に会いに行くことと、家の掃除と片付け。
たぶん、「お墓」の中に父はいなくて、
一人で、自由に行きたいところに行っているだろうから。
ひょっとすると、家にも居つかず
大好きだった川で、魚と一緒に泳いでいるのかもしれない。
どこかで、誰かと花見をしているかもしれない。
がんばれー
ウチは掃除しとくねー

先日、息子が卒業し、また引っ越しをした。
もうママの手伝いはいらない、ということで、
心配しつつ、遠くから見守った。
どうか元気で、無事でいてほしい。幸せでいてほしい。

誰しもが離れて暮らす家族の無事を願う。
私も、同じ気持ちで暮らしている。

その点、孤独ではないな、と思ったりする。
母親は卒業。その意味では自由になったが、
まだ当分は、自分の王ではなくシモベだろう。
急には無理だからね、、シモベ歴長いから。

なんと、おさんぽは、今年還暦を迎えます。
が、恐ろしく考えが幼稚なんで、
自分が何を考え、どう行動してきたか
改めて哲学書など読み返し、振り返りたいと思う。
じっくり時間を使って、
なんとか自分の「王」になってみたいものである。
自らを励ましつつ
なんだか、なんでもいいからやってみよう、
みたいな、お陰様で自分自身に
やや前向き気分の年度末ではあります。
なんか、変化があれば
又投稿したいと思います。
宜しくお願い致します。
さあ
皆さま、新年度です、張り切ってまいりましょう!

お読みいただきありがとうございました。









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