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夏目漱石「三四郎」本文と解説4-12 美禰子は「雪ぢや詰らないわね」と否定を許さぬ様な調子であつた。「雲は雲でなくつちやいけないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐がないぢやありませんか」
◇本文
美禰子が掃(は)くあとを、三四郎が雑巾を掛ける。三四郎が畳を敲(たた)く間に、美禰子が障子をはたく。どうかかうか掃除が一通り済んだ時は二人共大分親しくなつた。
三四郎が馬尻の水を取り換へに台所へ行つたあとで、美禰子がハタキと箒を持つて二階へ上(のぼ)つた。
「一寸と来て下さい」と上から三四郎を呼ぶ。
「何ですか」と馬尻を提げた三四郎が、楷子段(はしごだん)の下から云ふ。女は暗い所に立つてゐる。前垂だけが真白だ。三四郎は馬尻を提(さ)げた儘二三段 上(のぼ)つた。女は凝(じ)つとしてゐる。三四郎は又二段上つた。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺許りの距離に来た。
「何ですか」
「何だか暗くつて分からないの」
「何故(なぜ)」
「何故でも」
三四郎は追窮する気がなくなつた。美禰子の傍(そば)を擦(す)り抜けて上へ出た。馬尻を暗い縁側へ置いて戸を明ける。成程 桟(さん)の具合が善(よ)く分からない。そのうち美禰子も上(あ)がつて来た。
「まだ開からなくつて」
美禰子は反対の側(がは)へ行つた。
「此方(こつち)です」
三四郎はだまつて、美禰子の方へ近寄つた。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、馬尻に蹴爪(けつま)づいた。大きな音がする。漸くの事で戸を一枚明けると、強い日がまともに射し込んだ。眩(まぼ)しい位である。二人は顔を見合せて思はず笑ひ出した。
裏の窓も開ける。窓には竹の格子が付いてゐる。家主の庭が見える。鶏を飼つてゐる。美禰子は例の如く掃き出した。三四郎は四つ這(ばい)になつて、後(あと)から拭き出した。美禰子は箒を両手で持つた儘、三四郎の姿を見て、
「まあ」と云つた。
やがて、箒を畳の上へ抛(な)げ出して、裏の窓の所へ行つて、立つた儘 外面(そと)を眺めてゐる。そのうち三四郎も拭き終つた。濡れ雑巾を馬尻の中へぼちやんと擲(たた)き込んで、美禰子の傍(そば)へ来て、並んだ。
「何を見てゐるんです」
「中(あ)てゝ御覧なさい」
「鶏ですか」
「いゝえ」
「あの大きな木ですか」
「いゝえ」
「ぢや何を見てゐるんです。僕には分らない」
「私 先刻(さつき)からあの白い雲を見て居りますの」
成程白い雲が大きな空を渡つてゐる。空は限りなく晴れて、どこ迄も青く澄んでゐる上を、綿の光つた様な濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が烈しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地(ぢ)が透(す)いて見える程に薄くなる。あるひは吹き散らされながら、塊(かたま)つて、白く柔らかな針を集めた様に、さゝくれ立つ。美禰子は其 塊(かたまり)を指さして云つた。
「駝鳥(だちよう)の襟巻(ボーア)に似てゐるでせう」
三四郎はボーアと云ふ言葉を知らなかつた。それで知らないと云つた。美禰子は又、
「まあ」と云つたが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。其時三四郎は、
「うん、あれなら知つとる」と云つた。さうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあの位に動く以上は、颶風(ぐふう)以上の速度でなくてはならないと、此間野々宮さんから聞いた通りを教へた。美禰子は、
「あらさう」と云ひながら三四郎を見たが、
「雪ぢや詰らないわね」と否定を許さぬ様な調子であつた。
「何故です」
「何故でも、雲は雲でなくつちや不可(いけ)ないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐がないぢやありませんか」
「さうですか」
「さうですかつて、あなたは雪でも構はなくつて」
「あなたは高い所を見るのが好きの様ですな」
「えゝ」
美禰子は竹の格子の中から、まだ空を眺めてゐる。白い雲はあとから、あとから、飛んで来る。
◇解説
以前、美禰子の手に持つ小道具の話をしたが、今回三四郎が持つバケツが効果的に用いられる。
今回のシーンは、はたからは、「何いちゃついてんの!」と言われるだろう。
「美禰子が掃(は)くあとを、三四郎が雑巾を掛ける」…主従関係
「三四郎が畳を敲(たた)く間に、美禰子が障子をはたく」…分担作業。主従関係が解かれたようだが、三四郎は屈(かが)み、美禰子は立っている。
「どうかかうか掃除が一通り済んだ時は二人共大分親しくなつた」…共同作業がうまくいくと、人は自然と仲良くなる。
「三四郎が馬尻の水を取り換へに台所へ行つたあとで」…主従関係
「美禰子がハタキと箒を持つて二階へ上(のぼ)つた」。美禰子は「先に」、「二階へ上る」。そうして「上から三四郎を呼ぶ」…主従関係
「「何ですか」と馬尻を提げた三四郎(下僕)が、楷子段(はしごだん)の下から云ふ」…主従関係
「女は暗い所に立つてゐる。前垂だけが真白だ」
…これは美禰子という存在を暗示している。彼女は今、自分という存在や将来について悩んでいる。自分という存在がまずわからない。恋愛はやがて結婚へとつながるのだろうか。誰と結婚するのだろう。結婚はしなければならないものか。明治という時代における女性の在り方について苦悩する美禰子。彼女には「真白」・未定な心の部分がまだ残っている。しかしそれがいつ「暗」に浸食されてしまうかわからないという危うさ。美禰子という存在をありのままに認め、彼女を「暗い」闇から引き出してあげることができる人は現れるのだろうか。三四郎にその役をこなす力は、どうやら無いようだ。たとえるならば、三四郎は、自分の手に持つバケツで手いっぱいだ。
そのように考えてくると、これまで「主従関係」のように見えた二人だが、状況を把握し先を見通す力を持つ美禰子が三四郎を先導し指示するのは、当然の役回りといえるだろう。これにより、美禰子がとても知的で冷静に見え、三四郎が愚かに見えてしまう。(バケツ係www)
「三四郎は馬尻を提(さ)げた儘二三段 上(のぼ)つた。女は凝(じ)つとしてゐる。三四郎は又二段上つた。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺許りの距離に来た」
…このシーンも暗示的だ。先に上った女のとまどい。そこへあとからついて少しずつ上ろうとする男。美禰子は、論理も思索も経験も、三四郎よりも上回っている。彼女の人生の後から何とかついて行こうとする三四郎。
現在と未来が見えない「薄暗い所」でふたりは接近し、同時に恋のときめきを感じる。
「「何ですか」
「何だか暗くつて分からないの」
「何故(なぜ)」
「何故でも」」
…美禰子は人生に迷っている。そうしてどうしてそういう状態なのかも彼女自身わからない。
「三四郎は追窮する気がなくなつた」…人生経験も恋愛経験も浅い三四郎には、美禰子の言葉と苦悩は理解できない。彼はあきらめるしかない。
そうして三四郎は、「美禰子の傍(そば)を擦(す)り抜けて上へ出た」。美禰子よりも先の世界を覗こうとする。「桟(さん)の具合が善(よ)く分からない。そのうち美禰子も上(あ)がつて来た」。
「美禰子は反対の側(がは)へ行つた」のに対し、「此方(こつち)です」と三四郎は初めて彼女に指示をする。ふたりは協力して戸を開けようとする。
「三四郎はだまつて、美禰子の方へ近寄つた。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、馬尻に蹴爪(けつま)づいた。大きな音がする」。ふたりが結ばれようとする瞬間に、何ものかによってそれが邪魔されることの暗示・伏線。ふたりの愛は、そこで白けるだろう。
「漸くの事で戸を一枚明ける」ことができ、「強い日がまともに射し込んだ」。ふたりは「戸を一枚」だけ開けることに成功する。「眩しい」「強い日射し」に「二人は顔を見合せて思はず笑ひ出」すが、それも一瞬のことだ。
ふたりの恋が成就する予感がある。しかしそれは成就したかに見えて、やがてはふたりの手からこぼれ落ちる運命にある。
美禰子は「やがて、箒を畳の上へ抛(な)げ出して、裏の窓の所へ行つて、立つた儘 外面(そと)を眺めてゐる」。「箒を畳の上へ抛(な)げ出して」というのは、実際に作業に疲れたからなのだが、それと同時に、彼女はお嬢様育ちだということを感じさせる。
「そのうち三四郎も拭き終つた。濡れ雑巾を馬尻の中へぼちやんと擲(たた)き込んで、美禰子の傍(そば)へ来て、並んだ」…「濡れ雑巾を馬尻の中へぼちやんと擲(たた)き込んで」は、美禰子の「箒を畳の上へ抛(な)げ出して」と呼応した行動・表現。ここでふたりはやっと「並」ぶ。
「何を見てゐるんです」…東京のお嬢様の興味は如何に
「中(あ)てゝ御覧なさい」…ちょっと謎をかけてやりましょう
「鶏ですか」…庭を走ってる
「いゝえ」…バカなの、この人。そんな下劣なものを見るわけないじゃない。私をバカにしてんの?
「あの大きな木ですか」…庭にはそれしかないよね
「いゝえ」…やっぱりバカだわ、この人。せっかく二人で一緒にいるのに、もうちょっといい雰囲気とかムードとか出せないの? 田舎者ってだけじゃなくて、恋愛初心者?
「ぢや何を見てゐるんです。僕には分らない」…もう降参です。庭にはもう何もないじゃないか
「私 先刻(さつき)からあの白い雲を見て居りますの」…しょうがない、それでは私がいいムードを演出してあげましょう。ほんと世話が焼ける人
三四郎が空を見上げると、「成程白い雲が大きな空を渡つてゐる」…「大きな」未来を渡るのは美禰子の希望だ
「空は限りなく晴れて、どこ迄も青く澄んでゐる上を、綿の光つた様な濃い雲がしきりに飛んで行く」…若者たちはそれぞれに、自分の目標に向かって進んでいく
「風の力が烈しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地(ぢ)が透(す)いて見える程に薄くなる。あるひは吹き散らされながら、塊(かたま)つて、白く柔らかな針を集めた様に、さゝくれ立つ」…目標が必ず達成できるわけではない。希望が必ずかなうわけでもない。
この後のふたりの会話と心情を、想像をたくましくして解説してみる。
「美禰子は其 塊(かたまり)を指さして云つた。「駝鳥(だちよう)の襟巻(ボーア)に似てゐるでせう」」…ちょっとおかしなことを言ってみた。でも「ボーア」に喩えるところはやっばり私の上品なところ。
「三四郎はボーアと云ふ言葉を知らなかつた。それで知らないと云つた」…だって、知らないだもの。
「美禰子は又、「まあ」と云つたが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた」…この人ボーアも知らないの? これだから田舎者は……でもいいわ、私が教えてア・ゲ・ル♡
「其時三四郎は、「うん、あれなら知つとる」と云つた」…ホントは知らん。(この答えに美禰子は、「何をえらそーに」と思ってる)
「さうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあの位に動く以上は、颶風(ぐふう)以上の速度でなくてはならないと、此間野々宮さんから聞いた通りを教へた」…ちょっと、知識をひけらかしてみた。野々宮君からの受け売りということはナイショ。
※「あれは、みんな雪の粉ですよ。かうやつて下から見ると、些(ちつ)とも動いて居ない。然し、あれで地上に起る颶風(ぐふう)以上の速力で動いてゐるんですよ。」(2-5)
「美禰子は、「あらさう」と云ひながら三四郎を見たが、「雪ぢや詰らないわね」と否定を許さぬ様な調子であつた」…何この人、急にエラソーに語り始めたわ。ホントっぽいけど、ドーセ誰かの受け売りでしょ。乾いた知識をひけらかすんじゃないわよ。それにしても、雲が雪だとしても、全然おもしろくない。それがどーしたって感じ。それじゃ、夢も希望もないじゃん。詩とか情趣とかオモムキとかってものを知らないの? それでは物語にならないの! カンドーしないの! そんなことも分からないの?
「何故です」…なんか、急に怒っちゃったみたい。俺、何か、悪いこと言った?
「何故でも、雲は雲でなくつちや不可(いけ)ないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐がないぢやありませんか」…それが芸術よ。情緒よ。雲のもとは雪だって思いながら雲を眺めても、カンドーしないじゃん!
「さうですか」…なんか、彼女の言ってる意味が分からん。
「さうですかつて、あなたは雪でも構はなくつて」…こいつ、ホントのバカ? 東大の文学部も、この程度? コイツに文学を語る資格はゼロだわ!
「あなたは高い所を見るのが好きの様ですな」…東京のお嬢様の考えていることはわからん。
「えゝ」…とうとう人をアホみたいに言った! 許すまじ! でも、そんな激しい感情はおくびにも出さないけどね。バカの言うことは、軽く受け流すわ。
「美禰子は竹の格子の中から、まだ空を眺めてゐる」…わたし、お嬢様だから。最後まで演技を続けるわよ。今年の主演女優賞は、私のものね!
「白い雲はあとから、あとから、飛んで来る」…若者たちの夢や希望は、無限であること。
美禰子は詩の人(文系)なのだ。科学の人(理系)の野々宮とはそりが合わないだろう。これはミスマッチということで、どちらが悪いということではない。
雲への感動の仕方・対象が違うのだ。理系は氷だと感動し、文系は雲自体を鑑賞し、そこからさまざまなことを想像・イメージする。同じものを見ても、その楽しみ方が違う。
美禰子と野々宮は最後に破局となるのだが、それがぐずぐずな感じで終わるのは、資質の違いも理由の一つだろう。
詩人の美禰子に対し、三四郎はというと、先ほども述べたが、これが東大の文学部なのかと思うほどだ。地方出身の若者という設定であるにしても、それがあまりにも強調されている。ガチガチの設定だ。雲を見て詩を感じる美禰子を、彼は全く理解できない。三四郎は文学に何を感じているのだろう。研究対象・材料としか考えていないのか。そのようなことまで考えてしまう、今回の美禰子と三四郎の会話だった。
3-11の部分を振り返ると、妹の見舞いから自宅に帰ってきた野々宮が、留守番をしていた三四郎に、開口一番「昨夜、そこに轢死があつたさうですね」と聞く場面がある。「自分の経験を残らず話」す三四郎に、「それは珍しい。滅多に逢へない事だ。僕も家に居れば好かつた。死骸はもう片付けたらうな。行つても見られないだらうな」と言う。三四郎はその「呑気なのには驚ろいた。三四郎は此無神経を全く夜と昼の差別から起るものと断定した。光線の圧力を試験する人の性癖が、かう云ふ場合にも、同じ態度であらはれてくるのだとは丸で気が付かなかつた」。理系の野々宮は、人の死を情で捉えない。轢死死体を生物学・解剖学的に観察したいと考える。すべてを科学的に思考する人なのだ。
また、野々宮は妹を、「本当に馬鹿だと思つてゐるらしい。此忙しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だと云ふのである」。これに対し三四郎は「其意味が殆んど解らなかつた。わざ/\電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩や二晩を潰(つぶ)したつて惜しくはない筈である。さう云ふ人に逢つて過す時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮らす月日は寧ろ人生に遠い閑生涯と云ふべきものである。自分が野々宮君であつたならば、此妹の為めに勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思ふだらう。位に感じた」。
このように3-11で三四郎は、人の死を科学で扱う野々宮を「呑気」・「無神経」と感じ、また、寂しさから自分に会いたがる妹を「馬鹿」・「愚物」と捉える野々宮に対し、三四郎は、自分を慕う相手のために時間を費やすことは「惜しくない」どころかかえって「嬉しく思うだろう」とする。
つまり三四郎は、人の死を厳粛に扱い、恋しがる人の情を理解する人物として描かれていた。
これをもとに今回の三四郎を見てみると、そこに違和感を抱く。情趣を解する心ある人ならば、美禰子の言った「私 先刻(さつき)からあの白い雲を見て居りますの」、「駝鳥(だちよう)の襟巻(ボーア)に似てゐるでせう」というセリフには、「そうだね。君は、雲を面白いものに喩える詩人だね」くらい答えてあげなければならない。そうして二人で笑うのだ。そこから恋が生まれるのだ。それなのに三四郎は、「雲って雪でできてるらしいぜ」などと中途半端な知識をひけらかす。そこにはムードも何もない。美禰子は白けるしかない。
死を見つめ、人の情を解する人が、なぜここでは雲の文学性を認められないのだろう。またなぜ、美禰子の心情を掬い取り、共感してあげられないのだろう。三四郎は彼女に恋心を抱いている。恋する人に寄り添いたいと思うのが人情だろう。従って今回の話には三四郎という人物の不統一性を感じる。
彼女はせっかく舞台づくりをしていたのだ。
「箒を畳の上へ抛(な)げ出して、裏の窓の所へ行つて、立つた儘 外面(そと)を眺めてゐる」のは、当然そんな自分を彼は何してるんだろうと気になるはずだ。その意図に従って、「三四郎も拭き終つた。濡れ雑巾を馬尻の中へぼちやんと擲(たた)き込んで、美禰子の傍(そば)へ来て、並んだ」。そうして予想・期待通りの質問がなされる。
「何を見てゐるんです」…美禰子「待ってました、その質問」
「中(あ)てゝ御覧なさい」…美禰子「ちょっと、謎をかけてあげましょう。それも楽しくていいでしょ」
「鶏ですか」以降は先述した通り。
せっかく美禰子が「駝鳥(だちよう)の襟巻(ボーア)に似てゐるでせう」と洒落たのに、「ボーアと云ふ言葉を」「知らない」と馬鹿正直に答えたり、「あの白い雲はみんな雪の粉で」と科学的な説明を始めたりされた日には、「「雪ぢや詰らないわね」と否定を許さぬ様な調子で」言うしかない。雲は、「かうして遠くから眺めてゐる」のがよいのだ。
私がもし美禰子だったら、こんな男は掌でクルッと丸めてゴミ箱にポイします。
雲の文学性を理解できない人は、文学部に入ってはいけない。
まさか漱石さん、三四郎は文学部という設定や、轢死や妹についての野々宮と三四郎の会話の場面をお忘れでは……