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雨宮麻衣子がはじまるまで①卵の中の幸せ

私は神奈川県で生まれ育ちました。

自然が沢山のところで、虫も沢山いて、畑も沢山ありました。

神奈川の中でも田舎。

庭付き戸建の2階建てに住んでいました。

コンビニも、何もない所でした。

祖父は少し偉い人だったので、祖母はよく自宅に販売にきてくれる着物屋さんから着物をコレクションをし、毎日沢山の着物の中から選んだ着物をきて、時々、趣味のお琴をひいていました。

祖母は器用な方だったので、編み物を教えてくれたり、畳の上で歩き方の作法を教えてくれていました。

私が小学生の時の楽しみは、保育園から同じだった幼馴染みと帰って遊ぶこと。
特に一番中のよかった男の幼馴染みが一人いました。

女の子の友達はほとんどいませんでした。

唯一、近所の幼馴染みの女の子が二人。
二人とも、とても可愛い子でした。

私はもっぱら男の子とばかり遊んでいて、なぜか男の子の遊びにしか興味がもてないでいました。

私が男の子の遊びにしか興味がわかなかった理由は、私が37歳の時に知ることになり、雨宮麻衣子が誕生します。

私には2つ下の妹がいて、妹は本当にセンスも良くておしゃれで、頭が良くて、妹というだけで誇らしい気持ちになるくらい、とっても可愛い子でした。

私は妹が大好きで、私が小学生にあがると、母親の26インチの自転車にのって、妹を保育園に迎えに行っていました。

妹がトラブルに巻き込まれると、私が一目散に動くので、妹から親より先に頼られて、

妹が風邪をひくと、心細くないか心配で、学校が終わると自宅から徒歩30分の小学校から急いで帰っていました。
妹から「やっと帰ってきたーおかえりさ」と言われるのが、本当に嬉しくて、申し訳ない気持ちで、遊びにいかず妹のそばにいる事が多かったです。

以外かもしれませんが、この私の妹への甘やかしと、甘やかす環境を許し、躾ができない両親の子育てで、妹は17歳頃から様々な所でトラブルメーカーになります。
トラブルメーカーのはじまりは中学生からでした。

両親は妹に気を使い躾をすることができていませんでしたので、私が妹に躾を教えていました。
例えば、ご飯の時は肘をつかない!人のものは声をかけてから使う! お茶碗はもつ!

親が心配するから夜帰らないときは連絡する等。

本来なら親がしなければいけない躾を、私はいつから妹に躾を教えていたのか?を考えていました。

昔、妹から言われた言葉をおもいだしていると、

私が小一妹が保育園生の時、妹が何かあると泣いてどうにかしてもらおうとする性格が将来困るのではないかと

心配になったわたしは、妹に、
「なんでも泣けばよいものじゃないよ。泣いても物事は解決しない、いつまでも誰かが助けてくれるわけじゃないんだよ。」と言っていたそうです。
妹は叱られて、ハッとしたそうです。

この事を思い出すと、自分でもまさか、自分が小一の時に妹に躾をしなければいけなかった環境に、そこまでしっかりしていた自分に驚くくらいです。

私が35歳になったとき、私ははじめて、大好きだった妹に嫌われ、妬まれていた真実を知り、妹が両親を使って、母親が父を使って、大好きだった父、母が私を31年間、虐めていた事を知る事になります。

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10年前くらいから、色んな人や、様々な人に本にした方が良いと、ありがたいことを言われていたのですが、軽度学習障害があり、文章が上手くかけないので、世の中に公開するのをためらっていました。
子供を産んでから、今までの人生経験のフラッシュバックが起こる子育てで、同じように苦しむ人の子育てが少しでも楽になり、こどもの力になれるようにと、活動と同時に、NOTEをはじめました。

私の方はお陰さまで、全ての原因もわかり、解決することができたので、子供への愛情と自分が親にされてきたことへのギャップの溝を客観的に見ることができ、子供の成長を楽しみに、子供を一人の自立した人として見守り過ごすことができています。

雨宮麻衣子の経験が誰かの役にたてましたら幸いです。

また、NOTEなら書けるかも知れないと思わせてくださった、NOTEを開発された方々に感謝致します。

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雨宮麻衣子のはじめかた
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