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福島琢郎について論文を書きました。

こんにちは、おはなピアノのkaoriです。私は2020年から大学院に通っているのですが、入学決まってからまさかのコロナ禍で、修士の2年間はほとんどオンラインとなり、なんだかわからないうちに終わってしまいました。合格当時、20年ぶりの大学だ~とウキウキして新しい服を三着も買ったことを覚えています(涙)。もっともオンライン生活のおかげで、パソコンと共にある生活やスラックでのコミュニケーションやグーグルドキュメントの同時編集、zoom会議など、今までの人生で一ミリもかすらなかったアイテムを強制的に使用する機会に恵まれたことには感謝しています。

そのようなわけで、せっかく貯金がんばって修士に入ったものの、消化不良も甚だしいと思ったこと、また指導教員の誘いで科研費のプロジェクトに参加するようになったこともあり、もう少し研究したいなと思って博士課程進学を決めました。今年は三年目となり学費はもう限界です。←

さて私の研究テーマは、ピアノの技術者って今までどんな風に養成されてきたんだろう?これからはどうあるべきなんだろう?ということです。中年以上の同業者の方はお分かりと思いますが、ピアノの技術者になりたいと思った場合、就職を前提とした調律や整調技術はメーカーの養成所、もう少し大がかりな修理なども含めるとそれも対応している専門学校、そして設計や製図、ピアノ製作も理論から学びたいとなると国音の調律科という選び方だったのではないかと思います。また、どの養成所や学校でもそこで学べることは基礎に過ぎず、卒業して働きながらどのような技術を身に付けるかが本番。という業界だと私は認識しています。

私は楽器の歴史などアカデミックな関心が強かったので国音にしました。しかし国音の調律科はもう数年前に募集停止してしまいましたので、改めてあそこで製図やピアノ製作を行えたことは貴重な体験だったんだなあと思うとともに、日本でピアノが製造され始める過程で、特に戦前までの先人たちはどのようにしてピアノを設計したり、その技術を教えたりしていたのかなあ?と考えました。

その中で、同業者の方はほとんどの方がご存じの福島琢郎。彼はロングセラーの教科書を書いてますが、一体どうしてそんなことができたのか、誰に向けて書いていたのか不思議だなあと思っていたのです。(まえがきを読めばわかるにはわかるのですが、芸大に調律科があったってことなのか?など、彼の執筆動機や出版の意図がやや意味不明だったわけです。)

そんなときに、国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索機能が始まりました!それまでもデジコレで福島琢郎を検索したことはあったのですが、たしか3件くらいでした。それが一気に375件に増えたのです!これはさっさと調査せねばということでやってみたらかなり面白い新発見がありました。まず福島はピアノではなくヴァイオリンから楽器の世界に入ったというのはうっすら知っていたのですが、ヴァイオリンの独習本まで出版していたのです、早稲田大学商科を卒業してすぐに。。。この意味不明さが私にはたまりませんでした。

それから今まではピアノ産業界からの視点で「福島琢郎はインテリで留学までした変わり者」で片づけられていたその留学の詳細が明らかになりました。今までも、東京音楽学校(現在の東京藝大)とのつながりで福島の言動を追うことは可能だったのですが、国費留学している人たちが逐一現地から報告をしていることに着目した研究はなかったのです。

そのようなわけで、博士課程では論文も出していかねばならぬということもあり、農商務省から留学した福島が、期せずして第一次世界大戦前夜と最中のアメリカのピアノ業界に身を置きながら、日本のピアノ産業界に向けて、何を報告し提言していたのかを紹介するような論文を書いてみました。

よろしければご一読ください^^

★福島についてこういう資料もありますよ、福島に限らず大井近辺の関東大震災以前のピアノ業界についてこういう話あるよという情報お持ちの方はぜひお知らせいただけたら嬉しいです^^
★実業練習生の留学先からの報告は福島に限らず面白いので『貿易時報』や『商工時報』をデジコレで読む人が増えたらよいな~と思ってます。
★サポート大歓迎。←

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