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taboo持ち寄り会 vol.17「 つながり」 イベントレポ文責:Aki iwaya Akinori Kasuya

taboo持ち寄り vol.17 テーマ【つながり】

2023年3月7日 (火)20:00-21:30 @ぶんじ寮

アキです〜、るんるんるんるん

【つながり】
つながってますか??
というか、「つながる」ってどんなイメージですか?
ポジティブな、あるいはネガティブで、ということはどちらでもあって、どちらでもない?

なんでやねん!!

そういうことです。
「つながり」、と聞いたあなたのなかの反応したなにか。言葉になる部分とそうでない部分。いや、いずれにも収まらないところ、あったりしませんか?

ーーー
20時。
場は、そもそも、つながり、って「人間にとって」必要なのかしらん?
というところから「自分にとって」に主語が変化していくものだった。

都会で孤独死はいやだけど、森の中でひとりで死ぬならいい。
ひとりで汚く死ぬのは嫌だから、テクノロジーが死を検知して綺麗に後片付けしてくれるならいい等。

つながり、をエサに人を集客するのは、なんだか気持ち悪い。
「蜘蛛の糸」に群がる衆生と、絶妙な案配に切れそうな糸を垂らすコミュニケーション強者/デザイナーの構図が想起された。

そこから、そもそも人は関係し合ってしまう生き物ではないか?
であるなら、つながりを断絶することは可能なのだろうか、実は不可能なのではないか?、と転がっていくのだった。

個人的には、つながりへの希求こそは、人間が底にもつ振り払いがたい欲望ではないか、絆し(ほだし)という名の呪いではないか。そう考えずにいられない。

つながりは何かのための手段が、それとも目的か。
つながりを、対象化することはできるか?

何と何の間の、誰と誰の間のつながりか?という問いが出された。
明確な回答は出されなかった。

私は、つながりは、助詞のようなものだと感じた。
「てにをは」は、てにをはだけを切り出しても実効がない。
入れ替えが可能な気も、語調を整えるだけのような気もする。だが、確実に、それぞれの助詞の使用によって惹起されるニュアンスが異なる。ニュアンスは、語の選択、並び、文脈、読む者のそれらが総合的に相互的に、都度決定する。このニュアンスこそは、使用者の人格を、言語でありながら、非言語的な感覚をもって伝えるものだ。

助詞は他の言語への翻訳がきわめて難しい。そういえばいつ習ったのかも不明だ。
あるとすれば、生まれて今までの幾多の言語使用、特に読み・聞くことを通じて、各人の使用方法を自分の体を通して会得したのではなかったか。環境、といえばわかったふうだが、実のところ「蚕と糸」の関係のほうが近しいだろう。

蚕は野生の蛾を人間が数千年かけて家畜化したもので、より良い生糸を多く効率的にとることを目的に品種改良を重ねた結果だ。糸を取るためには、さなぎの状態の蚕を殺すことになる。完全に羽化してしまうと繭を突き破って成虫が出てきてしまい、糸を取りだせなくなるからだ。

ところでその糸は、実際のところ何からつくられたものか?
原理上、言語は個人所有が叶わない。どこまでいっても共有物であるほかない。だが助詞の使用によっては、部分的に私有のニュアンスが醸されることとなる。

天のような彼方から垂らされた糸は、私の糸と、つかのま結合する。
と、自重により/重力の原理に従って切断されている。
切断するのではなく、切断される。誰かの意図ではない。
それは原理が現象として遂行されたまでである。
つながりを司るために、超越を許された審級は存在しない。

切断された不可視・膨大な糸たちは、一体どこから垂らされたのだろうか。
人類史上、繭を突き破った者はどれほどいただろうか?
さなぎ、糸、家畜、所有、欲望、つながり、システム、意図の彼方。

ーーー

誰かと一緒に居たい。でも、居たくない。
3秒で人を好きになって、1分で恋をして、1時間後には鎮火。

気がついたら、そんな人間になっていた。

「つながり」という言葉に違和感を持ちはじめたのは、つい最近のことだ。

今までは「誰かとつながることは良いことだから、みんなつながれば良いのに」なんて思っていた。
ATフィールドが中和されて、みんなが一緒になれば、世界は幸せになる。そんなことを本気で考えていた自分もいた。「つながり」に違和感を持ってからは、あの時、アスカが呟いた「気持ち悪い」の意味が分かったような気がする。

孤立、つまり、社会との「つながり」が少ないことは、喫煙を上回るほどの健康を害するリスクがあり、脳卒中や心疾患の発症率が上がるという。
このような科学的なデータを受けて、「つながり」をつくることは良いことだと、日本各地で自治体や企業、医療機関などがつながりをつくる活動をはじめている。

高齢者や人口減少によって、地域のつながりの希薄化が課題として浮き彫りになったことが大きな要因の1つだ。東日本大震災を境に「つながり」という言葉は多く使われるようになったようにも思える。

しかし、「つながり」を(無理に)つくられようとしている人と、「つながり」をつくろうとしている人の「つながり」の意味はそれぞれ違うということは、注意すべきである。

「つながり」の時間や多寡、感情、思い入れ、親密さ、相互の助け合いの強弱など、1人1人違うはずだ。人によっては、「つながる」のは人と人なのか、人と場なのかという考えもあるだろう。この点を考えずに、一方的に「つながり」をつくろうとすることは、かえってネガティブに働くことも考慮した方が良い。

僕は「つながり」をくっついたり離れたりを繰り返す、流動的なものであると考える。
その上で、時間や親密さ、強弱などを考えることが出来れば、お互いが心地よい「つながり」になるのではないかと思う。

持ち寄り会では、参加者の「つながり」についての興味の深さを知ることができた。その人の経験やライフステージで「つながり」の意味付けが変わってくることも感じた。

会の中で新しい疑問も生まれた。
「つながり」は切れるものなのか。切れるとしたら、どうやったら切れるのだろうか。

「つながり」は欲しいけど、心地悪い。

そんな違和感に向き合うために、これからも僕と誰かの境界線上の価値を覗いていきたいと思う。

by Akinori Kasuya

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