プレートの境界
北海道は今は1つの島だけど、実は北米プレートとユーラシアプレートがぶつかってできたって知ってました?
その境目、ぶつかりあったところがはっきりと分かったのが1年前だそうだ。上の写真の白いチョークの線がその断層の位置。その先の海に目をやると、なんだか岩と岩の間にまっすぐとは言わないまでも、なんか割れ目みたいになっているところは「大間(オオマ)」と言って、すごく深いんだそうな。
それまでもここだろうと思われていたものの、それを証明するために、3年もかけて両側の石を調べたのだそうだ。この日は干潮で岩間が見えているけど、実は普段は海水に覆われており、石の採取も大変だったそうだ。右と左の岩間では、全く異なる石なので、異なるプレートだと結論づけられたというわけ。
学芸員
先日行ったアポイ岳ジオパークビジターセンターは実は展示が秀逸だった。新しいし、プロジェクトマッピングを使って、非常に興味深い説明がこの同じ模型を使って何種類も流れる。
しかも学芸員の方が色々説明もしてくれる。イベントも再開していると知り、昨日、プレートの境界線を見るツアー(なんと無料!)に参加してきたのだ。
見方を変えてみる
日本の地図って、自分の国だから、頭に焼き付いているのは日本を中心にした地図だ。でも、こんなふうにみると全く違って見える。
大西洋側の海の部分が徐々に広がって、2つのプレートが北海道でぶつかったことも理解できるし、断層がこんな風になっていて、かつて奥尻島で大きな地震があったのも、そうだったのか、と思える。
鎖国時代
断層を見た後、その先にある江戸時代の難所、日高耶馬溪(ヒダカヤバケイ)を散策。江戸時代にここをどうして通らなくてはならなかったのだろう? と疑問に思い、学芸員の方に聞いたら、鎖国をしていた江戸時代、北海道にも異国船が訪れるようになり、幕府はその脅威に備えて、このあたりにも陸路を開削したそうだ。
でもその山道は、険しく、干潮の際にはこの海岸線を通ったようだが、ここならトンネルを通せるのではないかと思えるのがここだけだったみたいで、明治時代は手で、大正時代はダイナマイトで、昭和はもう少し近代的な工法でそれぞれ作ったトンネルが並んでいる。さらに山側に、現在使われているもっと幅の広いトンネルもある。
歴史の教科書には登場しないかつての日本に出会った気分。昆布とかを運んだのかなぁ。馬を使ってたはずなんだけど、江戸時代の手掘りのトンネルは馬が通れる高さはなかった。
これは大正時代のトンネル。1年のある時期、このトンネルの先に夕陽が沈むと、それは美しいそうで、かつてメルセデス・ベンツのコマーシャルのロケに使われたそうだ。(私の写真のセンスがないから、なんかそんなふうには見えないかもしれない…)
もっともっといろいろ説明してくれたのだけれど、私の知識が追いつかず、紹介しきれないのが残念だ。機会があれば、ぜひアポイ岳ジオパークビジターセンターの学芸員の方の解説付きツアー、参加してみてください。