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反芻 Chewing the past

天高く、牛肥ゆる秋。
クルミの実を食べながら、反芻している自分に気づく。
痛かった思い出、嫌だった過去を思い起こして、もぐもぐ。。。
腹膨れる思いが重い。

つい数週間前、あるいは数年前の出来事の辛い、痛い、嫌な思い。
外から爽やかな風がそよぎ、窓から差し込む日差しは柔らかい。
にも、かかわらず、暗い、じめじめしたあの時にタイムスリップする。

どらえもんの「どこでもドア」のように自分が行きたい所に繋がるドアならば良いが、戻りたくはない場所に繋がるドアが、突如として現れる。
そして知らぬ間にそのドアを開けて、過去に戻って追体験をしてしまう。

「辞められない、止まらない、かっぱ〇びせん」というCMがあった。
そのフレーズの様にちょっと塩味の効いたクルミの実を食べながら、過去の塩気の強い追体験が頭の中で繰り返される。

なぜだろう?

おそらく、長い年月をかけて身に着いた学習方法なのかもしれない。
同じ失敗を繰り返さないために、間違った箇所を何度も何度も見直す方法。
今も仕事でこの方法は毎日使っている。

この方法は正解にはこだわらず、不正解の問題だけに焦点をあてる。
悪いことではない。しかしこれを日常生活にも適用するととかなり厳しい。
全てのことが出来て当たり前。出来ない事が間違いであって、その間違いを繰り返さない為に、その点だけに焦点を当てる方法だ。

だから、当たり前の出来事は楽しくも感謝でもない。
当たり前にならない事だけに焦点を当てるのは、苦しく後悔ばかりだ。

そこで、学習方法を変えてみることを考える。
今を噛みしめる。Chewing the now and here.

How? どうやって?
今まで過去を反芻してきたのと同じようにすれば良いのかも。
今まで過去と失敗に焦点を当てていたのを、今と在るに変える。
ただ、それだけだ。

「どこでもドア」ではなく「今ここドア」の扉を開けてそこに留まる。
なんだか、つまらない、そんな先入観が沸いてくる。刺激もない。

そうだ。なぜ、過去の失敗に焦点を合わせるのか、理由が分かった。
過去の失敗や後悔をもたらしたストーリーは実はexiting storyなのだ。
辛くて、しょっぱくて、びりびり、どきどき、ぞわぞわする出来事。
半沢直樹が世間で流行る理由と同じかもしれない。

穏やかな初秋の午後、のんびりと過ごす事にどこかで罪悪感を覚えている。だから、辛く嫌な出来事を思い起こして「喝」を入れている。
白黒つけたい、まじめ過ぎる、、のかもしれない。。。が染みついた習性、習慣、文化。

過去のストーリーを見つめる視線を180度展開させる。
すると今に戻る。

さわやかで穏やかな風が吹いている。なのに、どきどきしている。
穏やかさの後に嵐がやってくることを恐れている。
過去の経験が未来を予測している。

どこでもドアは今度は未来に開いた。
そこで、視点を真上に向ける。
天の門が開いている。良いも悪いもない。批判、比較、裁きがない。

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反省も計画もない。
ただ、あるのは、空だ。

息を吸い。息を吐く。
聞えてくる、彼の声が
「そのまま、そのまま」
「反省しない。裁かない。そのままに」

古から聞こえてくる、彼の声は、今という時を満たしている。
そして、今という一瞬にして消えゆく時から
また、次の一瞬の今へと繋がる。
まるで呼吸のように。

これが、今を反芻する。
This might be the way how to chew the now and here.

9/28/2020 16:45

#Chewing the now and here #反芻 #今を生きる #マインドフルネス #Awareness #breath #空



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