
貴族じゃなくても
夜にインターネットを徘徊していたら、とってもセレブな人のInstagramにたどり着いた。
もはや日常着として着ているブランドのお洋服。黒地にカラフルなボタニカル柄の、形も完璧なスカートや、色もかたちも上品なニット。
シーズン毎に数足買い足すと言う同じかたちの色違いの靴。
ジーンズの"ちょっと近所のカフェへ"スタイルでも、指や手首にきらめく宝石のジュエリー。
広い、ガラス張りの素敵なリビングに、毎週届くというお花のアレンジ。
対して今日の私は、オーブンでから揚げを焼き(揚げてない)、そのタイミングを間違えて息子の離乳食の冷凍ストックがチンできなくなって、あせってどたばたとうどんと野菜を煮こんでいて気づいたら腰をやっていた。着ていた服は昼間着ていた黒いザラのTシャツと昔着ていたコットンのサルエルパンツ(いつもよりマシ)。毎シーズン色違いで数着買うのはUNIQLOのTシャツくらいだ。
私はずっと、お金持ちの世界には、あまり興味がなかった。
20代の頃はブランドのお財布やバッグを欲しいと思ったこともなくて、30歳になった記念に初めてイヴ・サンローランのバッグを買った。それにしたって、できるだけブランドのロゴが目立たないものを探して行きついたものだ。
ハイブランドのお洋服じゃなくても、心にぐっときて自分の身体に似合う服があればいいと思って生きてきた。
だけど、そのアカウントにはなぜか惹きつけられた。高価なものがこれでもかというほど写っているのに、嫌な感じがしない。
きっと、美しいひとなのだと思った。
しばらく前に読んだ、『あの子は貴族』を思い出した。
たぶん東京の真ん中あたりには、広くて美しい家とかブランドの服やバッグこそが日常のひとたちが、たくさんいるのだ。
美人は性格が悪い、と世間的に言うけれど、ただの美人じゃなくて内面からすべてが美しいひとたち。もちろん、外見も美しくいるように身だしなみを整えて、毎日の努力もきちんとしている。吉本ばななさんの『キッチン』でみかげが働く料理教室に通う女の子たちみたいに。
お金持ちを鼻にかけているわけでもなく、ナチュラルに、私がスーパーでお惣菜を買うように家にシェフを呼び、ビジネスホテルに泊まるのと同じくらいの感覚で高級なホテルに泊まり、お財布と相談することなく自分に似合う素敵な服を買うのだろう。
私には手が届かないほど高いお洋服や靴やバッグは、素材もデザインも洗練されていて、身につけるひとをさらに美しく見せてくれるのだ。
そういうのっていいな、素敵だな、と素直に思った。
私も今までの人生の中で、そんなふうになりたいともし本気で思っていたら。もしかしたら、今よりはそんな生活に近づいていたのかもしれない。
でも、そう思わないでここまで来てしまったのだ。もしかしたら、内心では憧れていながら、叶わないのだからと初めからあきらめて、興味のないふりをしていただけなのかもしれない。
『あの子は貴族』で、主人公の女の子は、最終的に彼女の日常だった世界から抜け出そうとする。
そうだ。キラキラした貴族の世界が、面白いとは限らない。
私は今いる場所で、美しくいることを考えよう。
どんな場所にいても、結局私は、泥臭くあがいて乗り越えた先にあるものを求めてしまう気がする。
例えば息子がうまれたことで、おおげさかもしれないけれど、全世界の子どもたちが前よりもっと愛しく感じるようになったこと。みんなが自分らしく生きられたらいいのに、と、前よりも実感をもって願うようになった。さまざまなマイノリティのひとたちがみんなありのまま認められて、個性を尊重し合って生きていける世の中であればいいのに、とも強く思う。
そうやって新しい世界を知ってパワーアップして、より芯のある美しさを身につけていけたらいいのだ。
ついでに顔のコロコロも乗るだけのブルブルトレーニングも毎日きちんとしよう。腰が治ったら。
そんなことを考えていたら、これからの人生がきらきらしたものに思えて、なんだかわくわくしてきた。
育児しかしていない自分にもやもやしっぱなしだったけれど、明日から息子との時間も、今日までよりもっともっと楽しめそうな気がしている。