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「真夜中のミサ」解説♪エリンの独白と汎神論

遅ればせながら「真夜中のミサ」鑑賞☄


寂れた人口100人ちょいの島にカリスマ性を持つ謎めいた神父がやってきて島民の信仰と活気を取り戻したかに見えたが不穏な出来事が続き…なストーリー🧛‍♂️

製作者マイク・フラナガン監督の宗教観をエリン・グリーンというメインキャラクターの独白に載せて語られる場面がありますがこれが英語垢で「こんなに美しい汎神論の説明を私は初めて見た✨」と話題になっており。マイク・フラナガンの手記を見ても彼は汎神論主義者なのだと思います。

汎神論

汎神論とはむちゃくちゃ平たく言うと「万物みんな神ってる!」という考えのことです🫧「教会主導!イエスという人格を持った存在が神!人間の世界の外に存在して奇跡を起こすのが神!」という考えに17世紀宗教革命時代に違和感を持ったのがユダヤ難民のオランダ人スピノザさん☄

スピノザさんは、神様と人間や自然の間に隔たりはなくすべては一体だよねと考え。これスピリチュアルに見えて逆で、17世紀の科学革命時代に聖書というファンタジー要素多めジャンル本をいかに合理的に解釈するかという試みだったのです🧑‍⚕️

神は自然や宇宙と同一なのだから、神の行いも自然法則に則るはずです。聖書に書いてある海を割ったり物理法則に反した奇跡は実際には起こっていない…という考えで神の人格や超越性の否定なので当時は無神論として彼の本は発禁になりました💨

「真夜中のミサ」でも「人や全ての植物や動物、あらゆる原子、星も星雲もそうだわ、宇宙には砂粒より多くの成分が存在する。私たちの言う神はそのことなのよ」と語られてます👀

✳️エリンの独白

多くの絶賛が寄せられたマイク・フラナガンの汎神論的宗教観が表現された詩的な独白シーンの解説と文字起こしです↓吹き替え版の文字起こしですが、一部意味が分かりずらい箇所は字幕版に変更しています🌟

人の死や人生を科学的な認識をベースにしながら宗教的な信仰へと昇華させるものです。ライリーとエリンの“死んだらどうなるのか”…という会話からエリンの独白が始まります💫

体は細胞の機能を一度に止めても、脳は神経の炎を燃やし続ける。脳に火花を散らせて花火を上げ続け絶望や恐れの感情は何も感じない。何一つ。そんな暇はない。思い出すことに忙しくて。そうよ。私の体の原子は全て夜空の星から作られたことを思い出す。この体は結局ほとんどは空っぽ。でも体は個体じゃないかって?ただのエネルギーの振動よ。それも遅くなってもはや私でない。

↑ここで言う“エネルギーの振動”というのは人間は60兆個の細胞から出来ておりそれらの細胞(原子からできている)が振動していることですね。つまり人間とは酸素や炭素などの化学元素からなり更に見ていくとエネルギーの振動だよねという科学的眼差し👀

体の電子は私が横たわる地面の電子と混ざりあい、私はもはや呼吸をしていない。そして思い出す。そこが始まりでどこが終わりかはどうでも良い事だと。私はエネルギーであり記憶ではない。私自身もない。名前も性格も選択も後からついてきた。私は過去であり未来でもある。その他は人生の途中で拾った写真のようなもの。

「体の電子は私が横たわる地面の電子と混ざりあい」というのは人は死ぬと土に還るという表現で多くの人が共有しているものだと思います🌱「私はエネルギーであり記憶ではない。私自身もない。名前も性格も選択も後からついてきた。」ですが、ここで言う「記憶」とは生まれてから死ぬまでの人生の生活上の記憶ですね。生まれてから死ぬまでの記憶だったり、名前や性格などの要素が自分を構成するモノだと多くの人は認識しますが、それはあくまで表面上のことであり、突き詰めると人ってこの宇宙を構成する物質であり、宇宙の一部だよという考えかなと🌏

死にゆく脳に焼き付けられた夢の欠片は走馬灯のように駆け巡る。
私は稲妻のように飛び回り神経を動かすエネルギーとなり帰っていく。
思い出すことで空へと帰っていく。まるで一滴の水が海へと帰っていくように。いつ何時も世界は全ての一部。全てのものは一部。誰もが一部。

↑この前半部分(死にゆく脳~エネルギーとなり帰っていく)は冒頭の繰り返し。後半部分の「思い出すことで空へと帰っていく」の「思い出すこと」は恐らく汎神論的な信仰を得る…という意味かと自分は認識しています🫧
この時の信仰とは、組織化され腐敗した教会や盲目的かつ排他的な信仰ではなく、この世の全ては神と同義であり私たちはこの宇宙の一部であると思い出すという汎神論的信仰です🍀

あなたも私も、私の娘も母も父も存在するもの全て植物や動物も原子も空の星も銀河も全て。浜辺の砂粒よりも多くのある銀河。それが私たちが神と呼ぶものよ。

↑キリスト教では神を人格神(意志を持って人間に裁きを下す)だとし、私たちの外の世界に神はいるという考えられていました🌼神は超越的な存在でこの世界とは別物という考えです。一方で汎神論では神はこの世界そのもの自然や宇宙そのものと見なします✨

それは宇宙と無限に続く夢。私たちはそれぞれ夢を見ている宇宙。人生だと思っているものは、ただの夢に過ぎない。でも夢は忘れる。いつものように。私は夢を忘れる。
今この一瞬で過去を思い出した途端すぐに全てを一度に理解した。時間などない。死などない。

↑汎神論では“世界は神の現れであるから、そこには善もなければ悪もない。そう見えるのは人間の意識による相対的な働きによるのだ“とします。“人間の意識による相対的な働き”をマイク・フラナガンは詩的に「夢」だと表現しています🫧

私たちは通常、オンギャーと産院で生まれ、成長し、肉体は老いていき寿命が来て心肺が停止してお医者さんが死亡宣告します🩻この一連の流れを私たちは人生だと思っていますが、それを「夢に過ぎない」とフラナガンは言います。

彼は本作を「宇宙の中で私たちは孤独だという気持ちと、そうではないという願い」を込めたと語っており、オンギャーから死亡宣告までの一般的な人生には死が来るが、私たちは皆宇宙(=神)だと思い出せば、そこに終わりや孤独はないのだという意味かなと思います☄

人生は夢。それは希望。
何度も何度も何度も何度も永遠に見続ける夢。

真夜中のミサ

↑「それは希望」は字幕版では「それは願い」となっており(エリンはwishと言っています)。1人の人間が100年近く毎朝起きて活動し夜寝るという営みを延々来る返すので「何度も見る夢」とも言えますが、

マイク・フラナガンは天文学者カール・セーガンの「ペイル・ブルー・ドット」を読んだときに「20年に及ぶ聖書学習で得た以上の精神的共鳴を感じた」と語っており。1990年に約60億キロメートル離れた場所からボイジャー1号によって地球が撮影されたのですが、その地球の様子は広大な宇宙の中に浮かぶただの白い点、0.1ピクセルの点でしかありませんでした。つまりペイル・ブルー・ドット(=青白い点、何十億人を抱えてるとは思えないほど印象の薄い白い点)ですね。
カール・セーガンはこの小さい点の中で人類が歴史上何度も何度も何度も強烈にいがみ合い殺しあってきたことの愚かさ、そして掛けがえのない星を大切にしようと啓蒙した名文を残しました。下記の方のリンクに日本語訳が載っていました。

『ペイル・ブルー・ドット』60億Km先から見た地球。天文学者カール・セーガン氏が残した偉大な名言【プチ起業したプチ起業家ブログ】 | プチ起業家ドットコム

想像以上にマジで点w

エリンの独白で出てくる「何度も何度も何度も何度も永遠に見続ける夢」というのは、歴史上人類が色んな願いや希望を持ちつつ、何度も何度も繰り返し行ってきた営みの全てを指しているのかなとも感じました🌤

汎神論は万物は神の具現化であり全ては必然と考えます。自由意志なんてものは有限な存在の人間が生み出した錯覚だとしています。フラナガン監督が自由意志に関してどう認識しているかは定かではありませんが「夢」という表現の儚さに通じるものがあります。そして「夢」だけれども、そこには「願い」や「希望」があるのですね🫧


全てが私であり、私は全ての一部。
私はいつもある(I Am that I am)

締めくくりの「I Am that I am(私は在ってある者)」とは『旧約聖書』の出エジプト記3章14節に出てくる言葉です。モーセが神に名前を尋ねた際に神は自らを「私は在ってある者(I Am that I am)」と答えました。「私は山田太郎です!」ばりに答えてくれたら分かりやすいですが、この言葉は非常に意味を理解しにくい言葉です💦

解釈は色々ありまして、「私は私です」とモーセの「君の名は?」なる質問を回避してる説やら「自分は何者かによって創られたものではない(=私は創造者である)」と訳す人もいます。

しかし汎神論では創造者(神的存在)と被造物(人間や自然やこの世界)とを分け隔てず、万物は神が具現化したものであり、宇宙(全ての総体)と神を同一視します。なので私もあなたも頬を撫でる風も全て「神」であり、それの認識を通して「I Am that I am」を解釈すると吹き替え版の「私は“いつも”ある」は納得です🌟全ては神そのものなのですね。

✳️アニミズムとの違い

日本ではアニミズムの考えがありますが、こちらは色んなものに霊的存在や精霊が宿っており人格を備えている場合もあります。汎神論も万物全てに神的存在を感じるところは同じですが、汎神論ではアニミズムのように個別に意思は持ちません。

アニミズムだと私のマグカップにもアイパッドにも霊魂を認めてくれそうですが、汎神論は逆に精神や魂や自由意志を万物は持たず、普遍的かつ本質的な神によって共有されている…という認識です。エリンの独白も最終的に神という1つのものに収束しました🫶

アニミズムの多様性や独自性にも魅力がありますし、汎神論の全ては神という唯一の実在であり本質に繋がる話も孤独を癒してくれる話ですね。

彼は本作のテーマをこう表しています。

狂信の腐敗と対峙する許しと信仰の美しさ。宇宙の中で私たちは孤独だという気持ちと、そうではないという願い。

マイク・フラナガン手記

というわけで長くなりましたが、「真夜中のミサ」というかマイク・フラナガンを貫く汎神論的宗教観のお話でした👻


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