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戦後日本の「野外彫刻」の歴史から彫刻の未来を考える

 野外彫刻は、駅や施設など、日常的な空間のなかにあって、景観の向上や、情操教育、コモンズの形成に役立つ存在である。しかしながら現状は、観光資源としての期待があるくらいで、野外彫刻の意義を明快に積極的に述べる自治体や美術館は少ない。また管理者や利用者(市民)の視点から、野外彫刻の活用が話題になることがあっても、研究者や作家が野外彫刻の定義や作品論を展開する機会は稀である。これは野外彫刻が全国各地に存在する現状と照らしても、不均衡な状態であると考える。

 「野外彫刻」という言葉が流通するようになったのは、1960~1970年代である(註1)。戦後、物資が乏しいなか、屋外を会場とした展覧会が開催されるようになり、やがて屋外に置くことを前提とした彫刻が生まれるようになる。そのなかで、慰霊碑や記念碑としての役割を持たず、景観や人々の生活の質の向上に資することを目的に、彫刻が屋外に展示されることが当たり前のこととなっていく過程は、種々の書籍(註2)で触れられている通りである。ただそれらの多くはみな1990年代の「パブリックアート」の登場を到達点として、まるで野外彫刻の歴史が完結したかのように書かれ、2000年代以降は、インスタレーションや地域の芸術祭に進化していき、野外彫刻は役目を終えたかのように記されている。しかし、本当にそうなのだろうか。

 そもそも野外彫刻とはいったい何であろうか。日本各地の彫刻コンクールや野外彫刻美術館に長く携わってきた酒井忠康は、「「野外彫刻」という彫刻があったわけではない。」(註3)と述べている。また初期に野外彫刻の展覧会を牽引した土方定一も、出品作品のことを野外彫刻と呼ばず、「野外に置かれた彫刻」(註1)と表現している。現在の彫刻研究においても、「屋外彫刻」という言葉の方が優勢であるようだ。「野外彫刻」という彫刻はそもそも存在せず、「野外に置かれた彫刻」のことを「野外彫刻」または「屋外彫刻」と呼んでいるだけなのだろうか。「野外彫刻」と「屋外彫刻」は、同義語なのだろうか。あるいは「野外彫刻」は、特定の時代の事象を指す限定的な単語である可能性があるのではないか。

 かつてのまちづくり事業によって日本の各地に設置された野外彫刻は、経年による老朽化や土地の利用計画の変更など、様々な問題に晒されている。野外彫刻は美術館の収蔵庫に保管される彫刻とは異なり、万全な保管や管理は叶わない。全てを修復するのか、廃棄もあり得るのか。それは誰が決定し、またどのように周知し、記録するのか。現存する野外彫刻ばかりでなく、新しく生まれてくる野外彫刻もある。山口県宇部市では現在も2年一度、野外彫刻を対象としたコンクールが開催されており、また再整備によって誕生した施設に、新しく「アート」という呼び名で野外彫刻が設置されるケースも多々ある。東京都千代田区の丸の内ストリートギャラリーはアート(彫刻)の屋外展示でありながら、展示替えを可能とする画期的なスタイルで事業を持続している。こうした状況と並行して、美術大学の専攻名から、「彫刻」という言葉が消えようとしている現状もある。彫刻を作る技術の継承が教育機関で行われなくなれば、現在の野外彫刻を維持することも、未来の彫刻を生み出すことも困難となる可能性がある。

 公共空間という発表の場は、芸術が社会に接する場として魅力的な環境であり、今後も欠かせないものである。また公共空間においては、必ずしも美術の知識を持たない様々な特性を持つ個人が、野外彫刻を鑑賞する。鑑賞者によって価値が認めれたとき、美術史家や美術評論家が与える価値基準は意味をなさない。「野外彫刻」という言葉の使用の有無に関わらず、その存在が提示する様々な視点は、現在の美術館や社会が向き合う共生社会の課題とも呼応しているのである。

  • (註1)拙著「宇部市の野外彫刻展に見る〈野外彫刻〉の意味の変遷について」『東造形研究論集 2024年度』東京造形大学 2024年5月 P.185

  • (註2)松尾豊、藤嶋俊會、伊藤裕夫『パブリックアートの展開と到達点』水曜社、2015年3月

  • (註3)酒井忠康「第24回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)に寄せて」『第24回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)』図録、2011年9月


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