悲しき熱帯魚 5章

 部屋全体は薄暗く、行灯の炎がゆらりゆらりと蠢いていた。熱帯魚の影も障子に大きくゆらめいている。遠くからは、三味線や男と女の笑い声が薄っすらと聞こえてくる。緩やかであるが音と鮮やかな色彩の洪水のなかで、龍太郎は、なぜか心が休まった。吉野になら隠し事をせず、何でも話し尽くしてしまいそうだった。

 龍太郎は、夜の帳が下りたもとでその空気を呑み込むように一呼吸し、先を続けた。

「親父は、その時、なぜか今までになく気弱になっていて、俺に後をすぐにでも継いで欲しいことを口にした。ただ、後を継ぐ条件としてなるべく早く身を固めるようにと言われた。

 実は俺は、今まで本気で女を好きになったことはない、といっても、別に男の方がいいというわけでもないがな。こんな言い方はしたくないが、今までもあちらから寄ってきて、女には不自由をしたことは無い。そこそこ気にいった女はものにさせてもらった。だけど、二度も三度も抱きたいと思う女は今まで一度もいなかった。お前も知っていると思うが、俺は女を買ったことはない。買ってまで無理に自分のものにしたいとはこれまで思わなかった。これは俺の哲学とまで言わなくても生き様のようなものだ」

 そこまで言うと、龍太郎はもう一度吉野の顔を見遣った。女はいつの間にか、長いキセルを優雅にくゆらせながらも、視線はしっかりと龍太郎だけを見つめていた。まるで、この世には龍太郎しか男がいないように。キセルから流れた煙から、甘い匂いが頼りなく浮遊する。

「それで、わたしのとこにあなたは来てくれたわけですね」

 吉野の隣の大きな金魚鉢のなかで、熱帯魚が吉野の言葉に呼応するように、小さく跳ねて、ぽちゃりと小さな音を立てた。

「どうだろう。お前に遭うのは、正直に言うと怖かったのかもしれない。お前に遭ったら、自分の信念を曲げて、金を払って手にいれたいと思うような気がしたのだ。こうなる前から」

 熱帯魚が先より、より大きく跳ね上がった。今度は、ガラスの器の外に幾ばくかの水も溢れた。

「あなたの本能がそう示すのであれば、それに従うべきですわ」

 吉野は妖艶な笑みを浮かべ、キセルを置くと、その雪のように白くて滑らかな手を龍太郎の手へ重ねた。

「お前に溺れてしまいそうだ」

「大丈夫、あなたは泳ぎが上手という小さいときのお話を先ほどしてくれたばかりじゃ、ありませんか。溺れることはありません」

 吉野は、今度は優しく微笑んだ。龍太郎は、この女からはどんな男も逃げられないだろう、と思った。もちろん自分も含めてだが。

 もう抗うことは止めて、素直に龍太郎は吉野の誘いを受けることにした。男の手は女の軀を引き寄せて、寝床へと横たわった。



 

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