悲しき熱帯魚 3章
その夜、自分が一番お気に入りの橙色に艶やかな空色の襟回りの着物を着流して、吉野は龍太郎の座敷に少し遅れて入っていった。既にちょびちょびと他の女たちに酌をしてもらい、龍太郎は杯を進めていた。
「遅くなってしまって、すみません」
座敷の入り口で三つ指を付き、吉野は優雅に挨拶をした。
「そんなことはどうでもいい、早うこっちへ来い」
冷静な態度で、龍太郎は自分の隣の席に座るように促した。今まで隣に座っていた女は用なしになり、しずしずと下がっていく。それぐらい、龍太郎の物言いは明らかに吉野を待っていた雰囲気が溢れていた。
「初めまして。有名な龍太郎さんが、わたしを呼んでくれるなんて、珍しい。どういう風のふきまわしかしら」
吉野はやや紅潮しながら興奮気味に言った。今までのお座敷で吉野がそういう態度を取ったことは異例のことだった。
龍太郎は、吉野の艶やかな笑顔を見て、自分もその瓜実顔に笑みを浮かべた。
「お前を呼ばないと、ここに来る価値はないか?」
それでも、ちょっとからかうような調子で言うと、これまた女心を揺さぶるような目で吉野を見遣った。
「滅相もございません。皆さん、殿方はそれぞれお好みがあると思いますし。お声を一度も掛けてもらえないので、てっきり龍太郎さんから嫌われていると思っていました」
吉野はしおらしく下を向いたあと、上目使いで目の前の男を見つめた。
「ほう、お前でもそんなことを思うことがあるのか。まあ、真意はわからんがな」
「まあ、意地悪な方。わたしも女ですよ。気弱になることもありますわ」
周りの空気はざわざわと静かに動いている。端で見ていた女たちは、目の前で繰り広げられる男の女の気持ちの探り合いを楽しんでいる様子だ。
吉野はこの界隈でも一番売れっ子の一人だ。色々と聞かずとも、吉原を少しでも聞きかじったことがあるものは、風の噂で吉野のことは知っていた。龍太郎とて同じことだった。
座敷に同席している女たちも機会があれば、金もあり見たくれもいい龍太郎をものにしたいと思っていた。うまくいけば、龍太郎が金を払ってこの鳥籠から連れ出して自由の身にしてくれるかもしれない。そうでなくても、他の男たちに抱かれるより、男前の龍太郎に抱かれた方がどれだけいいか分からない。龍太郎の周りには、女たちの執念でオーラができそうな勢いだった。
そんななか吉野は、場を和らげるような雰囲気で、そそと龍太郎に酌をした。何も言わずに男はそれを受けた。それだけで、既に二人の間には、親密な空気が漂い始めていた。