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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#3-10

兄が実家に僕の結婚について連絡した時、母は間抜けな声を出したという。
そして僕がムスリムになったこと…結婚相手もムスリムであることを告げると黙り込んだ、と。

自分も同行して嫁になる人を連れて行くから、と言うと了承したという。

母も一気に情報過多になって思考停止しているのかもしれないな。

そうして僕らは年末年始を避け、12月の半ばのとある週末に実家に行った。
僕、何年振りだろう。東京に出て来て以来だな。

香弥子さんは僕らの親父が実は元県知事であることを告げると、萎縮してしまった。

「もう隠居の身ですし、何やってたって大したことはない、ただの人であることには変わりないですから」

僕がそう言っても香弥子さんの表情は硬かった。
更に家の前まで来ると、仰々しい大きな日本家屋に尚更萎縮した。

「わ…私なんか…受け入れてもらえるのでしょうか?」
「親が受け入れなくたって関係ないです。何なら僕が家を出ますから。兄ちゃんはそれをしたくて出来なかった人ですけれど」

そう言うと兄は苦笑いした。

香弥子さんは美しい紫のヒジャブを着けていた。彼女には、片田舎の旧い考えの両親に対しても誤魔化すことなく、ムスリムとしてのアイデンティティをきちんと示して欲しい、と伝えておいた。

数寄屋門を兄が開き、庭を通る時には兄を先頭に隠れるように僕が、更に僕に隠れるように香弥子さんが、ついて歩いた。香弥子さんは僕の腕をいつになく強く摑んでいた。僕は彼女に言う。

「大丈夫ですよ、たぶん…」

たぶんって、なんだよ…。

何も臆することがないのは兄だけだった。玄関で呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは母だった。
母は僕と香弥子さんを見て強張った表情をした。兄が「お手柔らかに頼みます」と母に言った。

随分老けたな、と思った。思えばもう75になるのか。とすると親父は80だ。

渋々顔で母は「どうぞ」とあがるよう勧め「お父さんもすぐ客間に行きます」と告げた。
兄が振り返り「大丈夫だから」と僕たちに言った。

雪のせいか、外は白く明るく輝いているのに、廊下ははどことなく薄暗くひんやりとしていた。もちろん客間には明かりも暖房も入っているのだが、

僕も香弥子さんも席に着くなり緊張で体が強張った。
程なくして襖を開いて親父が現れた。兄の表情も心なしか引き締まった。
しかし親父は相変わらず表情のない人だ、と思った。それは僕も同じか。

「隆次が結婚だって?」

腰を下ろすなり開口一番にそう言った。僕は「はい」と答えた。事前に兄が香弥子さんのことを伝えてくれていたとはいえ、やはりジロジロと香弥子さんのことを見る。僕はその視線が耐え難かった。

そこへ母が茶と茶菓子を持って現れ、再び僕は緊張する。家ではいつも母には怒られていたからだ。

「なんでまた…イスラム教? どうしてここは日本なのにそんな…。随分極端なもの選んだのね? 野蛮な人も多そうだし揉め事が多そうだし」

座るなりそう言った母はまだ戸惑っている様子だった。

「どこの国だろうとどんな宗教だろうと自由です。イスラム教の偏見がどうしたってあるようですが、勉強し直してから言ってください。それとも年老いた頭にはこれ以上の勉強と理解力を求めるのは酷ですかね?」

兄がそう言うと、香弥子さんが僕の腕を更に強く摑んだ。更に兄は続ける

「それに今回の話題は宗教ではなく、隆次の結婚です」

正座をした兄は背筋を伸ばして胸を張り、膝の上に拳を置き、真っ直ぐに両親を見据えた。

「私たちももう歳だし…隆次みたいな子のお嫁さんになってくれるって言うなら、何も言うつもりはなかったけれど…宗教行事には参加したくないわ」

母はモゴモゴと言った。

「嫁、じゃなくて僕が婿に行っても、いいですかね?」

僕の言葉に香弥子さんが「えっ」と声を挙げ、小声で僕に言った。

「隆次さん、そういう話はまだ出ていませんよね? 話し合ってもいないですよ?」
「この家は兄さんが継いだ形になっていますし、僕はいいですよね? どこに行こうと何をしようと」

すると親父が突然笑い出した。

「遼太郎も隆次も昔っから兄弟揃って勝手なことばかりだ。今回も突然結婚、突然イスラム教信仰と、もうとっくに呆れを通り越しているから。隆次の好きなようにしたらいい。うちに妙な宗教を持ち込んでもらっても困るからな」

香弥子さんの顔が硬直する。母は何も言わない。
僕が何か言おうとすると兄が手で制して言った。

「家を出ることを認めてくださってありがとうございます。あなたのような方の元で家庭を持たなくて済む事は2人にとって幸いです。でもひとつだけお願いしたい事があります」

親父は無表情のまま兄を見つめ、兄は続けた。

「宗教を侮辱したことを隆次と香弥子さんに土下座して謝ってください。今すぐ」

無表情だった親父が兄を睨んだ。母が慌てて言う。

「侮辱だなんて」
「侮辱ですよ、立派な。そもそもそんな言葉を発することに対して悪意はおろか、何の感情も持たない事が大問題ですよ」

しばらく睨み合いが続いたが、兄が僕らの方を向いて言った。

「香弥子さん、両親に代わって謝ります。失礼な物言いで不快な思いをさせたこと、申し訳ありません。失言をどうかお許しください。隆次のことも数々傷つけてきた、不甲斐のない親ですから、どうかお許しください」

「遼太郎」

親父の低い声が響く。

「2人の結婚は了承していただけたということでいいですね? そうしたらもう用は済みました。早めに退散するとします」

僕と香弥子さんが呆気に取られていると、兄は「行こう」と促し立ち上がった。

* * *

「香弥子さん、本当に申し訳ない。もういい歳だから少しは穏やかになっているかと思ったら、相変わらずだった。めでたい話の席が嫌な空気にさせてしまった」
「いえ…。どんな宗教でも偏見はついて回ります。私も慣れているので、大丈夫です」
「そんなことに慣れる世の中ではいけないんだがな」

帰り道。
僕は特に何も発言していないのにグッタリと疲れていた。そんな僕の身体を香弥子さんは支えてくれている。

「僕の家のことは何も考えないでください。話し合いましょうって香弥子さんさっき言いましたけれど、僕の家に絶対入らない方がいいです。養子縁組してもしなくてもいいです。僕は婿になると香弥子さんの両親に話します」

「隆次さん…。それは教えに背くことになります。このぐらいのことで家族の絆を切ることは出来ません。今まで偏見があったとしても、私たちをきっかけに理解を進めてくださるかもしれません」

兄が鼻で笑う。
僕はそんな時が訪れるだろうか、とぼんやり考えた。




#4-1へつづく

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