食事と音楽と男と女 #7
秋は短い。
ついこの間まで灼熱だったのに、気がつくともうコートを必要になったりする。
暖かに煌めく日差しと徐々に色づく街路樹。
刹那の秋に、私は焦るような、もどかしいような気持ちになる。
週末、店に訪れたときのこと。
「紗織さん、お疲れさまです!」
今夜も中村くんが出迎える。私が直人と付き合っていることは、店の人達は知らない。
カウンターに通された時に、田村さんしかいないことに気づく。
その私の様子を察したのか、中村くんが言った。
「ナオトさん、さっき彼女らしき人が来て、ちょっと出てくるって行っちゃったんですよ」
「え…?」
まさか、だった。
「僕もナオトさんの彼女、初めて見たんですけど。なんか込み入った感じの様子で」
中村くんがそう言うと、田村さんが「おしゃべりしすぎ」と彼に釘を差した。
「ナオトさんいなくても、僕もだいぶワインに詳しくなってきたんで、お任せくださいね!」
スマホを見ても、彼からメッセージは何も来ていなかった。
居ても立っても居られない気持ちだったが、店を出てひとりになったところで、不安は益々募る。
ここはアルコールの力を借りるしかない、と思った。
「中村くんのオススメのワインはなに?」
彼にそう尋ねると、ものすごい気合の入れようで赤を2種、白を1種勧めてくれた。
「確かにだいぶ勉強したみたいね」
中村くんははにかんだように笑った。
食欲は出なかったので、生ハムの入ったサラダだけで、勧められたグラスワインを全て頼んでしまった。
食事の味があまりわからず、ワインばかり飲み進んでしまう。中村くんも「今日はずいぶんいきますね」と驚いた。
そういえば今日の店のBGMはピアノトリオジャズだった。直人が選んだものなのだろうか。
だいぶ遅い時間まで居座ってしまったけど、直人は戻って来なかった。メッセージを送っているけれど、既読もつかない。
「すっかり遅くなっちゃった。そろそろ帰らなきゃ」
立ち上がる時にフラつく。当たり前だけど、飲み過ぎた。
「大丈夫ですか!?」
中村くんが背中を支えてくれる。
「ごめん、大丈夫」
店を出ると、雨。
なんて日だろう、と思う。
どうしようかと考えあぐねていると、店のドアが開き、他のお客さんが帰る際に、中村くんが顔を出した。
「あれ、紗織さん…。あ、雨」
ちょっと待っててください、と言い、一度店の中に下がり、すぐ出てきた。
「傘、使ってください」
差し出されたビニール傘。
「ありがとう…」
「紗織さん、本当に大丈夫ですか? 今日は少し様子がおかしいなって思ってたんです」
「大丈夫、ホントに」
裏腹な言葉を発するほどに虚しくなる。
酔っているせいかもしれないけど、涙が溢れ出てしまう。
「紗織さん、僕、家まで送ります」
「本当に大丈夫だから」
「でも」
そのまま去ろうとすると、背後で中村くんの声。
「好きな人が涙なんか流していたら、放っておけないですよ!」
振り返って、彼を見る。
拳を握りしめて少し震えているようだった。
「中村くん…」
「僕、紗織さんのことが好きです」
雨に濡れていく髪、黒いシャツ。
私は彼が渡してくれた傘を開いて彼に差し出した。
「僕…学生だし歳も10近く下だし頼りないかもしれないですけど…でも…好きになるのに歳なんて関係ないです。だめですか? 」
“だめですか” と言われても、答えは難しい。
「中村くん…気持ちは嬉しいんだけど…」
苦しそうな表情で、彼は私を見つめた。
「今日は帰る…」
そう言ってその場から逃げるのが精一杯だった。呼ばれる声を振り切って走る。
心許なくふらふらと歩く。雨脚は強くなっていた。中村くんの貸してくれた傘はありがたかった。
途中、赤い傘をさした年配の女性とすれ違う。
頭の中で大橋トリオの「赤い傘」が流れる。心が千切れそうなほど、切なくなる。
優しい歌は、あなたのそばで聴きたいよ。
直人、あなたのそばで。
私は座り込んで泣いた。
どうして。
* * * * * * * * * *
カバンの中で、携帯が鳴っているのに気付いたのは、しばらく経ってからだった。
立ち上がり取り出すと、直人からだった。
時刻は23時半を回っている。
出ようかどうか迷っているうちに切れたが、もう何度も着信があったことに気づく。
やはりすぐまたかかって来た。
「…もしもし」
『紗織? 今どこにいる?』
とても切羽詰まった様子だった。
「外」
『外? 出かけてるの?』
「帰るとこ」
素っ気ない返事をしてしまう。何が起こったのかを知るのが怖い気がして。
「今ね、お店に行ってたの」
電話の向こうは言葉に詰まっている。
「中村くんから聞いたの。店に “彼女” が来たって」
『そのことで、沙織に話がしたいんだ』
緊張が身体を走る。全身の毛穴が逆立つような。
「…悪い話?」
『違う。今日あったことを紗織に話したい。今から会いたい』
「今から…もう遅いよ」
『紗織の家の近くにいるんだ』
なんだろう、なんだか許せない。
中村くんのこともあるし、私はぐちゃぐちゃだった。
「どうしても今日じゃないといけないの?」
『間、空けたくないんだ』
歩いているうちに、視界に入ったのは、雨に濡れた直人だった。
「紗織…」
「なんで…現れるのよ…そんな格好で」
彼は腕を伸ばそうとして、濡れた身体で私を抱き締めることを躊躇ったように、手を下ろした。
* * * * * * * * * *
バスタオルを頭から被り、私の前に直人が座る。
彼の部屋よりは狭い1K。彼がこの部屋に来るのは初めてだ。
「ごめん、遅い時間になって」
「…話って、どんな」
笑顔を作れない。さっきから私は不機嫌な態度。
あんなに会いたかったのに。
「今日、店に元カノが突然現れて、無視するなんてひどいとか言い出すから、外で話そうって連れ出したんだ」
「彼女はやっぱり直人と別れたくないんでしょう?」
「でも…、ちゃんとお別れしてきたよ」
「本当に? 直人が別れ話してからこれだけ時間が経って、お店まで押しかけて、そんなあっさり?」
「あっさり、でもなかったんだけどな…こんな時間までかかったし…」
困ったような顔して直人はため息をついた。
「彼女は俺に未練があるのではなくて、俺から一方的に切ってシャットアウトしたことを、彼女のプライドが許さなかっただけだと思う。話し合ってみて何となくそう思った」
「本当にもう、会うことはない?」
「うん、ない。俺はもう会うつもりは一切ない」
私は、中村くんの件を話そうかどうか、迷った。
でも今日のところは情報過多になりそうだし、変にうやむやになっても、と思い、話すのをやめた。
* * * * * * * * * *
しかし翌々日の夜、直人から電話があった。
『サトルから聞いたんだけど』
私から話す前に、中村くんから話が行ってしまったらしい。
『サトルが紗織のこと気に入ってるのは何となく気付いてた。でも一昨日の夜、紗織に好きですって伝えたって。どうしたらいいですかって、俺に相談してきた』
「なんて答えたの?」
『付き合ってること、話したよ』
「…中村くん、なんだって?」
『どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか? って。遅かれ早かれ、前から好きだったんだろって言ったら、僕だって学生だし歳も離れてるし、もっと早く知ったら、そうだよなってすぐに諦めついたと思うけど、今はもうそんな程度で済まない、ってさ』
私は中村くんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
『一昨日って言ったら、俺が紗織のとこに行った日だよな。あの時、どうして話さなかった?』
「あの日は、それどころじゃなかった…少なくとも私にとっては。色んな話が入り乱れてもなって。今じゃなくていいかって、思ったから」
『…昨日仕事が終わった後、サトルと2人で飲んだんだ。真夜中まで話し込んだよ。サトルに "俺が憎いか” って訊いたら、黙って頷いてた』
私は何も言えなくなり、黙っていた。
『バイト辞めるなよって言ったら、仕事は好きですけど、直人さんと一緒じゃやりづらいですって言われたから、俺はしばらく手伝いに行くのを控えようと思う。アイツは金稼ぐ目的があるし、俺は趣味で手伝ってるだけだし』
「私、中村くんと会って話すよ」
『紗織』
「直人も元カノとそうしたでしょう? 中村くんに伝えてくれない? どこかの週末で話したいって」
電話の向こうではため息と共に “わかった” と答えた。
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#8 へ つづく