【連載小説】永遠が終わるとき 第二章 #2
受験すること無く迎えることが出来た高校生活。
ピアノは中学に入る前に辞めていたが、相変わらず英語とバレエは続けていた。
相も変わらずこっそり都内にもたまに遊びに出ていた。
アルバイトをしたいと親に告げた時、当初は猛反対した。お小遣いを充分にあげるからそれでいいでしょう、と。
けれど仲良くしている友人はどちらかというと "お淑やかな" 女子たちではなく、みなアルバイトをしていて話題も豊富だったので、羨ましたかったのだ。
アルバイトを通して社会を経験することだって重要ではないか、若いうちから知っておいた方が却って社会に出てから差がつくのではないか云々、私もしぶとく説得すると、ようやく渋々ながら了承してくれた。
ただバイト先は母が決めるとし、ちょうど近所で新しく歯科クリニックが開業になるので、そこの歯科助手募集の案内を見つけてきた。
面接を受けるとすぐに来てくれ、という話になった。
高2になる前の冬のことだ。
そこで私は初めて『彼氏』ができる。
相手はそこの歯科医師だった。32歳にして開業医。
16歳上の、既婚者。
私から好きになったわけではない。声を掛けてきたのは向こうから。
クリニックには有資格者の衛生士が数名と、資格を持たない助手の女性が私を入れて2名。
私は学校の授業が終わってから週に2日だけシフトを入れていた。夕方からクリニックを締める20時まで。
衛生士さんが最後まで残らない日がたまたまあり、そこで先生に声を掛けられた。
「お疲れ様。この後良かったら食事でも行かない?」
当然そこまで遅くなる訳にはいかないし、家には食事の支度がされているはずなので断った。
けれどその後も隙を見て誘ってくる。
その隙も意図的に作られていると察した。
内心思う。
お金はあるだろうし、それに彼は細身で銀縁眼鏡がいかにもな品を漂わせている、見た目でもモテそうなタイプだった。多分自分はモテるのだと自負しているような。
これだから歯医者は…と思った。鼻につくな、と。
けれどこれまで抑圧されてきた男性との接点。どんな相手だってどうせ親には内緒で付き合うことになる。
であれば。
歯医者。既婚者。何となくステータスに感じた。
完全に若気の至りだった。アルバイト参戦に出遅れた分、友達より優位に立てるような錯覚があった。
歯医者の前に、既婚者であることに理性が働いていなかった。
おかしい。私はおかしかった。
* * *
結局 “バイト終了後1時間以内を限度” として帰りにお茶をするようになる。
お茶。
最初の頃はそんな風に『健全』であった。
彼は言う。
「有紗の声ってベルベットのように落ち着いていて、いいよね。見た目も充分に大人っぽいのに、更に深みがあって魅力的だよ」
私は自分の声…低くて透明感のない声に少しコンプレックスを持っていたので、そんな言われ方をして驚いた。
今思えば何でもない、女性をその気にさせる小手先の言い方だったかもしれない。
けれど当時はそんな褒め方に舞い上がったのも確かだった。
だから何となく、一緒にいることは居心地が良かった。優越感は高かった。
彼は『大人』なのだし。
しかも『他人のもの』の『大人』。
仲の良い友人らにも、チラリと大人の彼氏がいることを匂わせ、「さすが有紗!」と言われることにまた優越感を憶えていた。
* * *
けれどそんな日々に変化が訪れた。
高校2年の夏の終わりだった。
その日も友人4人と原宿を歩いていた。
そこで偶然出会った男子校生4人組に声を掛けられ、人数的にもちょうど良いし遊ぶことになった。
4人組の中の1人。
一番目立たない、大人しい、ちょっと日和見のある男の子。メガネを掛けていて、本当はナンパで遊ぶなんてどうしていいかわからないよ、とでも言いたげな、それほどオドオドした感じ。
私は彼の事が気になった。
カフェでお茶をして話をして、ウインドウショッピングを一緒に周った。
帰り際、それぞれと連絡先を交換した。
私には自信があった。振られるわけがない、と。
歯医者の事は頭の片隅程度にしか無く、不倫男性を自分から振ってやるのだ、と爽快な気持ちだった。
けれど私は結局、振られてしまった。
私たちが彼らの高校の文化祭に出向き、その帰りにこっそり彼を呼び出して告白した。
彼の返事は
「いや…僕はちょっと…お付き合いは出来ないです…」
だった。消え入りそうな声で。
「どうして?」
「どうしてって言われても…」
煮え切らない答えに苛つき、じゃあもういいです、と言って私もその場を去った。
今思えば、恋が成就しなかったショックよりも、プライドを傷つけられたことのショックの方が大きかった。
あまりにも呆気なく、始まりもせずに終わってしまった。
恋とも言えやしない。
結局私は歯科医の元に戻ることになる。
「有紗は高校生でその美貌があったら、将来恐ろしいことになるね」
「そうですか? 見掛け倒しになったりして」
「そんなことないでしょう。才女でもあるじゃないか。お嬢様女子大にも合格したんだし、才美を兼ねているなんて。悪い虫がつくんじゃないかって心配だよ」
彼は言う。
あなたが一番悪い虫じゃないですか。こんなことしていると、3歳になる娘さんだって将来そんな虫がついちゃいますよ。
そう言うと彼は苦い顔をする。ふふっと私は笑う。
そんな滑稽だと思っていた付き合いは高校を卒業してアルバイトを辞めてからも続いた。
大学に入り2年生までは、つまり成人するまでは両親が家を出ることを許してくれなかったため、片道2時間以上かけて大学まで通ったが、そのお陰で私が地元を出なかったせいだ。
大学ではそれなりに男子学生とのお付き合いもあったが、何というか友達以上恋人未満というか、身体を許せるような人はいなかった。自分を安売りするような気持ちになって気が進まなかった。
どの口が言う、と自分でも思うのだけれど。
大学3年の時に1年間イギリスへ留学した時は、さすがにもう自然消滅になるかと思っていたけれど、セカンドガールというものはそういった "線引" すらないらしい。
帰国後都内で一人暮らしを始めると、彼はわざわざ車で私の部屋まで訪れた。
ただやはり彼は妻子持ち。
必ず家に帰る。
大学の友達は当然、普通に彼氏がいる。やれ一緒に旅行に行っただの、卒業したら一緒に暮らそうだの。
いえ、そんなことよりもっと些細な時に一緒にいられる『普通の』関係の話を聞くと、私は何をやっているのだろうと思った。
彼が買ってくれた良質のアクセサリーやカバンに友人たちは羨んだけれど、次第に私の心は虚無感を占めるようになった。
私が踏み込めない、普通男子との恋。
私が抜け出せない、不倫男性との関係。
就職活動を理由に会うのを断るようにし、その後は卒論で忙しいと断るようにし、就職の際は彼に告げずに引っ越しをした。
連絡先も消した。
不思議と何の未練もない。常にいつか捨てられると思っていたからか。
優越感が強い虚無に変わったせいか。
それともそもそも恋も愛もそこになかったからか。
何だったのだろう、私の6年間。
第二章#3へつづく