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【連載小説】あおい みどり #7

このお話はフィクションであり、病状・医師やカウンセラーの対応については物語の進行上、事実と異なる場合があります。予めご了承ください。
※2023/10/31 本文内一部表現を修正しています。

~ 蒼

通常は診察時に次回カウンセリング日を予約していくが、翠が無断キャンセルをしてからは何のアクションも出来ていなかった。

人気者の南條先生。Webサイトの予約画面を開いても当面空いておらず、ため息をつきながら何度かF5キーを押した時に直近の空き時間が表示された。

「お、ラッキー。明後日の空き時間が出て来たぞ」

すかさず予約を入れ、2日後の午後一の枠が取れた。

翌日会社には「明日午後半頂きます」と有無を言わさず伝え、当日はサッサと退社した。

クリニックの正面玄関に差し掛かった時、中庭の駐輪場に自転車を停める南條医師が遠目に見えた。
今出勤か、昼休憩から戻ったところなのかわからないが、ダサいヘルメットを被っている。自転車のヘルメットの形状はもう少し何とかならないものか。

南條医師は基本、ダサい。ドラえもんシャツ事件もあったし。
ただ自転車は小洒落たミニベロに乗っていた。美しいピーコックブルーのボディ、ドロップハンドルタイプだ。休日はもしかしたら、もっと爽やかな格好をして颯爽と自転車に乗っているのではないかと想像してみる。

ぼんやりと見とれている俺に南條医師は気づいたようだ。
俺を見た時に緩ませた笑顔が、ほんの一瞬、僅かに眉間に皺を寄せた。
しかし、すぐに大きな声でこちらに向かって手を振りながら
こう呼びかけた。

「あぁ蒼さん、こんにちは。久しぶりですね」

途端に俺は顔も身体も強ばる。
なぜ、遠目でわかったんだ。姿形は翠だぞ?

「…蒼さん? どうしました?」

南條医師はヘルメットを外しながらこちらに歩み寄ってくる。ボサボサの頭を気にもせず。
俺は思わず背を向けた。

鼓動が高鳴る。

俺は…。

「…蒼さん?」

背後で南條医師の伺うような、少しトーンの下がった声がした。
俺は恐る恐る振り向く。声は出ない。

「…待っていたんですよ。さぁ中に入りましょう。翠さんが好きな檸檬カミツレ茶を用意してあります。蒼さんも気に入ってくれるかな」

菩薩のような微笑み顔。その声はもう、元の穏やかで温かな温度に戻っていた。

「レモングラス、ローズヒップ、ジャーマンカモミール…などなどブレンドされているお茶、です」

南條医師はお茶の入っていた袋の原材料名を読み上げながらハーブティーのグラスを俺の前に置くと、恥ずかしそうに苦笑いした。

「ハーブの名称とか役割はあまり詳しくなくて。美味しいなぁとかいい香りだなぁとかは思うでのですが、恥ずかしいな」

そう言って頭をかいたかと思うと身体を少し横に向け、メモを準備をした。

自転車に乗っていたからだろうか。普段よりも胸元のボタンが一つ多く開いている。翠を前にしていたら留め直していただろうか。
そこから覗かせる胸元、喉仏、首筋、少し開いた抜き襟を見て、俺はゴクリと喉を鳴らした。

そんな俺の目線に気付いたのか、南條医師はボタンを締めた。舌打ちしたくなる。

「先生は自転車通勤なんですか?」
「そうです」
「洒落た自転車乗ってますよね」
「Brunoというミニベロです。小回り効いて走りやすいですよ。休日はあれに乗って、割とどこへでも出かけています」

どんなところに行くというのだろう。俺もついていきたいな、と言おうとしてやめた。そもそも自分の自転車なんて持ってないと思う、翠も。

「遠目では翠だったのに、顔もまともに見ないでどうして俺だってわかったんですか」
「佇まいが以前お会いした時の蒼さんと同じでしたから」

俺は言葉を失くす。

「翠さんはどうされたのですか。しばらく音沙汰がなかったので心配していました。SMSも何度か入れたのですが」

俺は南條医師から翠の名が出てくるのに苛ついた。そんな俺の変化も彼はすぐに見抜いたのか、取り直すように別の質問に切り替えた。


「そうそう、そのお茶、酸味と甘味のバランスが面白くて美味しいし安らぎますよ。飲んでみて口に合わなかったら残していいので」

翠さんのために用意した、とはもう言わなかった。俺は氷の入っていない、アイスハーブティーを一口啜る。翠がキンキンに冷えたものが苦手だから。俺は平気だけど。

「どうです?」
「…うわ…なんか甘い…」
「蜂蜜カミツレ茶ってくらいだから、蜂蜜のような甘さが確かにあるでしょう」

俺が顔をしかめたせいか、南條医師は苦笑いして「口に合わなかったら無理に飲まなくていいですよ」と言い、自分も一口飲んだ。彼の喉仏が上下するのを見つめ、俺ももう一口飲んだ。
ドロリと舌に残る甘さ、反して喉を落ちていくのは清涼感…おかしなギャップだ。まるで俺の…俺の想いそのものみたいな。

「今日は蒼さんの意思でここまで来たのですか」

俺は黙って頷いた。

「初めてですね」
「…ですね…」

そう。俺の意思で会いに来たのに、俺は全くもって緊張し、散々な状態だった。

「蒼さんは、食事はきちんと摂っていますか? 少食なんでしょう?」

~なんでしょう、の言い方に一瞬で身体がカッと熱くなった。

「…今朝はヨーグルトを…」
「お昼は?」
「食べてない。午前中仕事して、半休取って真っ直ぐここまで来たから」

南條医師はそんな調子で昨夜は?その前は? と食事の内容を訊いてきた。食に興味がないので本当によく覚えていないが、それでも◯◯だったと思う、と答えるたびにサラサラ、と紙の上にペンを滑らせる。

素早く書き終えると顔を上げて話しかける、を繰り返している。話す時は必ず俺の顔を見て話す。決して書きながら話さない。

「随分毎回簡素なんですね。最近涼しくなってきたし、食欲の秋、というわけにはいかないのかな」
「あんまり…食べることに興味がないから」
「僕は最近、例に倣って食欲が増してきちゃって。つい食べちゃうんですよね。今日のお昼も天ぷら御膳を…。あ、僕の話はどうでもいいんだけど」
「いえ、教えてください。天ぷら御膳がどうしたんですか?」

南條医師の言葉遣いが微妙に砕けてきている事に、俺は嬉しさと緊張が入り混じった。

「舞茸とか、さつま芋が入ってて、あぁもう秋なんだなぁって感じて。ちょっと前まで茄子とか茗荷が入ってたのに」
「茄子の天ぷらって…夏です…か?」
「え、一応夏野菜ですよね」

そう言いながら南條医師は目線を宙に漂わせたのち「でも言われてみれば一年中あるかもしれませんね」と言って笑った。

「…ということは、少なくとも5日前の夕方か夜からは、ずっと蒼さんのままなんですね」
「…はい…」

南條医師は目尻に皺を寄せ、微笑んだ。ニッコリという言葉がぴったり過ぎるくらいピッタリだ。

「蒼さん、仕事はどうしているのですか?」
「仕事については翠に指示を仰ぎます。あとは俺が適当に」

南條医師はほんの僅かに目を細める。サラサラ、とメモ。また顔を上げる。

「翠さんとは頭の中で会話している?」
「最近は…そうです」
「交代は…しないのかな」
「翠が出てきたがりません」
「それはどうして?」

俺は先日、翠の身に起こった職場での "事件" について話した。その間南條医師は真剣な表情になり、じっと俺の話を聞き入った。
いつにないその表情。メモを走らせる際に伏し目がちになった時は少し冷ややかな顔に見え、それがまた美しく、俺は再び喉を鳴らす。

「そうか…それは大変でしたね…。みんなのことを思って一身に受けてしまったのか。辛かったでしょう」

南條医師のその声も、表情も、組んだ手の指先までも、全て優しかった。その時翠が興奮したのか何かの感情が動いたのか、声を上げた。
翠のやつ、前回南條の言葉に号泣してたもんな。今の彼の声も聞こえているのか?

そして俺も興奮していた。翠とは異なる理由で。

「翠さんのカウンセリングは1ヶ月近く間が空いてしまっています。それまでは経過は順調だったんですよ。一生懸命ワークもこなしてくれて、すごく前向きに。けれど職場での負荷は、気持ちを少々逆戻りさせてしまったかもしれないですね」
「…」
「それで蒼さんは、翠さんを助けてあげているんですね」
「そういうわけじゃないです。あいつが戻って来たがらないから、仕方ないだけです」
「それはそれで、蒼さんも辛かったりしますか?」
「…まぁ…色々と」

例えばこの身体。生理前なのかモヤモヤした気持ちになったりすること。なのに。

「先生は…翠が戻って来なかったら…困りますか?」

俺の質問に南條医師は特段表情も変えず、穏やかに言った。

「ちょっと、困りますね」
「主に身体を返してあげてよってことですよね?」
「いや、そうじゃない。以前も言ったけど蒼さん、君は必要な存在なのだから」

"君は必要な存在なのだから"

ドクン、と鼓動が外に聞こえるのではないかと思うくらい強く跳ね上がり、鼓動で震えた身体がわかったのではないか、と焦った。

他にもこうして、この男に落ちてしまうやつ、どれくらいいるんだろう、と南條医師の喉元を見つめながら考えた。

華奢なのに無骨な、艶かしいあの喉仏に噛みついてやりたくなる。





#8へつづく


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