Your scent is a felony #2-1. Miss Dior
三寒四温の季節となり、冬のように寒いかと思えば初夏を感じさせる汗ばむ日もあってなかなか戸惑う。
またこの頃は曇り空の日も続き、雨模様になることもあった。
その日も残業をしたにも関わらず、雨は上がっていなかった。
でも雨は嫌いじゃない。髪が広がるのは嫌だけれど。
雨はなんだか、とても落ち着く。
見せたくないものを隠してくれる。気配を消してくれる。
そんな気持ちになる。
「昨日も次長のお気に入りの店連れて行ってもらったんですよ~。僕も店員さんにいよいよ顔覚えてもらっちゃって。てへへだな~!」
同僚の飯嶌さん、朝からテンション高めでそんな報告をしてくれた。
私の部署は企画営業部の部付スタッフで、同僚に飯嶌さん、直属の上司に野島次長の実質3人構成になっている。
飯嶌さんはこんなキャラでも、この4月に係長待遇になった。部下はいないので "待遇" となり、階級としては私と同じ。
同じ部にいる飯嶌さんの同期の中澤さんはスピード出世で4年目で主任、7年目で係長になっている。ようやく追いついた形だ。
ただ飯嶌さんの昇格ペースも早い。いずれは部下を持つようになるのだろうと思う。
「良かったですね」
平静を装って私は答える。
「前田さんと3人で行きたいけど、お店が狭いんですよね。4人座れるテーブル1つだけあったかな…」
「お気になさらず」
飯嶌さんは意図しているのか否か、さり気なく店の場所を教えてくれた。
というのも、彼は私が野島次長のことを好きな事をたぶん、知っている。
もちろん、私が口にしたことはない。友達にも話したことはない。
この気持ちは私と、野島次長本人しか知らない。
けれど周囲の目はあざとい。私が隙だらけなのかもしれないけれど…。
「前田さんもワイン好きでしたよね。行ってみてください。いい感じの店なんで!」
私は苦笑いして "ありがとうございます" と答えた。
* * *
そして私は素直にその店を訪れてしまう。
傘を閉じガラス戸越しに中を覗くと、確かに狭い店で、テーブルもカウンターも見える限りはほぼ埋まっていた。
入れないかな、と諦めようとした時、店のドアが開いた。
「お一人ですか? カウンターが空いていますよ」
店員さんが声をかけてきた。
私はそのままカウンターの奥の席に通された。
店内は明るすぎず暗すぎず、落ち着いた雰囲気だった。
次長らしいな、とここでも思う。
「グラスの赤を1つ、ください」
テーブルにオリーブの小皿が置かれたタイミングで注文する。
「お食事はいかがいたしますか?」
「とりあえずまだ、いいです」
やがて紫がかった美しいルビーのグラスが置かれる。
一口飲んでオリーブを一つ口にし、頬杖をついて店内を改めて見回す。
カップル、女性2人組、カップル、カップル…。
次長はいつもどこに座るんだろう。
飯嶌さんと来た時はテーブルだったのかな。
一人でもよく来るのかな。
どういうきっかけでこのお店を見つけたのかな。
そんな思いを馳せる。
「すみません、グラスの赤をもう一杯」
夜は出来る限り食べる量を抑え、質も気にしている。
けれどさすがに外で飲んで何も頼まないわけにはいかないので、温野菜サラダと鴨の生ハムを頼む。
隣のカップルが、互いに幸せそうな笑みを浮かべている。
私はあんな風な、屈託のない笑顔を浮かべられるような恋をしたことがない。
中学・高校と女子校だった私は、高校3年生のときに初めて彼氏が出来た。
相手は通っていた歯医者さん、既婚男性だった。
何もかもスマートな彼に私は夢中だった。
彼は何でも私に買い与えてくれた。甘い言葉もたくさん浴びせてくれた。
『君のような美しい女性は一流のものを身に付けて、ただそこにいてくれるだけで良いんだよ』
それが彼の口癖だった。
ただ私が得られないものはたった一つ。
それは彼自身だった。
関係は私が就職活動を始めるまで続き、就職で一人暮らしをするために私が引っ越すタイミングで完全に別れることになった。
彼は嫌がったけれど、未来の見えない恋にいつまでも陶酔することは出来なかった。
大学を卒業して大手外資系企業に勤めた私は、そこでもなぜか歳上の既婚男性に好かれることが多かった。
私自身、歳の近い男性にはあまり惹かれなかった。
普通の恋がしたいのに。
フリーの男性は何だか物足りなくて、悪循環だった。
いいなと思う男性を見るとまず左手に目が行く。指輪があるかないか。
指輪があるとため息をつく。この人もか、と。
けれど、私に近づくために指輪を外してくる男性もいた。
30歳を前にしていよいよ危機を覚え始める。また職場では様々なハラスメントもあり、転職を決意した。
これまでやってきたことを充分に活かしつつ、これまでより規模が小さくてもいいから、グローバルで実績を積んでいる会社を選んだ。
それが今の会社。
そして出逢ったのが、野島次長だった。
私は環境を変えても何も成長してはいなかった。
野島次長は物怖じせず、強いリーダーシップを持っている。ゆえにやや強引なところがあるが、決断が早く潔い。だから彼の受け持つ仕事の回転は早かった。忙しいはずのに決していつも遅くまで残ったりしない。
部下の面倒見も良い。
そしてあどけなさも持っていた。
そんな野島次長は、私がこれまで好きになってきたどんな人よりも、私の心を強く摑んだ。
潔さは仕事だけではなかった。
彼は自分の奥様のことをどれほど愛しているか、私に語った。
私はそれを聞いた上で、彼に告白した。
彼は私の気持ちを肯定もしなければ否定もしなかった。
そして私の気持ちを弄ぶようなこともしない。
そんな人はこれまでいなかった。
ぎこちなさを微塵も出さず、完璧な上司として振る舞った。
しかし一緒に仕事をするようになって4年になり、私は彼からも段々と部下だけにとどまらない "感情" を感じるようになった。
けれど彼は決して口にはしない。態度にも出さない。
時折、彼の目や表情からそれを感じる。
それは去年の夏、彼の "秘密" を共有してからだ。
あれは恐ろしい事件だった。
彼が青年に襲われ怪我を負った現場に、私が駆けつけたのだ。
あの日以来、彼との間に流れる空気が変わった気がしている。
私はそれだけで、心が熱くなった。
「ごちそうさまでした」
ワイン2杯とお料理2品で店を出る。
またいらしてくださいね、と店員が背後から声をかける。
雨は小降りになっていた。
#2-2へつづく