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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#2-6

帰りの道は、いつもと違う感じがした。

これまでは僕の心の中には、何かしらの靄だとか小さな腫瘍のようなものがあって、当たり前のように付き合ってきたけれど、やはりそれはクリアな状態ではないのだということが何となくわかった。

悪くない。悪くないぞ。

偶然か運命か、西の空には三日月が冴えた光を放っていた。三日月はイスラムのシンボルだという。

世界はふいに変わるチャンスが訪れるものなのだと知る。

* * *

次の木曜日、僕は一人で会合に向かった。すぐに香弥子さんの姿を見つけ目が合うと、彼女は普段と何ら変わりなく「こんにちは」と挨拶した。

「こんにちは、香弥子さん。僕、この前の土曜日に東京ジャーミイの見学に行きました」

そう言うと彼女は一瞬目を丸くした後にニッコリと微笑んで「そうでしたか」と言った。

「連絡してくだされば良かったのに」
「いえ、一人で行きたかったんです」
「お一人? お兄さんもなしでですか?」
「そうです」

僕は香弥子さんの口から、やはり兄のことが出てきたな、と思うのだ。

「今日、僕一人なんです。兄がいなくてすみません」

そう言うと香弥子さんは少し悲しそうな顔をした後に、ちょっと怒ったような声で言った。

「お兄さんではないんです。隆次さんが元気に来てくださっているなら…」

言ってる途中で香弥子さんはハッとした顔をして口を噤んだ。

「僕は最近はずっと元気ですよ」
「それは…良かったです…」

彼女の表情がちょっと暗くなって俯いたところにミーティング開始の声がかかり、僕らは室内に入った。

* * *

会合が終わると部屋の外で僕は香弥子さんを待った。彼女は誰かと少し話し込んでいたようだったが、5分ほど待つと出てきた。
僕を見ると驚いた顔をしていた。

「隆次さん、まだいらしたんですか。もうとっくに帰られたかと思いました」
「なんかさっき、香弥子さんの様子が変わったから、どうしたのかなと思ったんです」

そう言うと香弥子さんはますます驚いた顔をして目を丸くした。
目が大きくて丸い。改めて気づく。
彼女の顔はわかりやすい。

「すごい、隆次さん。そんなに細かいことに気がつくなんて」
「元気じゃないのは香弥子さんの方ではないですか。大丈夫ですか」
「隆次さん…」

香弥子さんの眉はハの字に下がり、僕は彼女は元気ではないのだと思った。

「良かったら晩飯食いに行きますか? 食事は1人でするより誰かとする方が美味しくなるって誰か話していましたよね」
「えっ? 隆次さん、夜中のお仕事があるから、遅い時間になるのダメなんじゃなかったでしたっけ?」
「まぁ良くはないです。ちょっとだけだったら大丈夫です。行きましょう。何を食べるかは香弥子さんが選んでください。食べてはいけないものが細かくあるのは香弥子さんの方だから」
「そんなに気にしないでください。普段はそこまで厳密に出来ない時もあって、多少の許容はしているんです…じゃあ、軽く参りましょうか」

僕たちはすぐ近所にあるカジュアルなイタリアンに入った。
香弥子さんがバジルのパスタを頼むと言ったので、僕はマルゲリータのピザを頼んだ。豚肉が載ってないことを確認して。

「気を遣わせてすみません」
「いえ」

そもそも僕は考えていた。豚肉を食べない生活をしてみようと。

その後は僕も話題がなく、香弥子さんもモジモジと俯く。飲み物のオレンジジュースが運ばれてきた。オレンジジュースが赤いのはイタリアっぽいと言えるのか。

一口、二口飲んで香弥子さんは口を開いた。

「先日…隆次さんが私に訊きましたよね。バザールの時にお兄さんと何を話していたのかって。私は隆次さんの事を色々伺ったとお話しました」
「子供の頃のこと訊いた、と話していましたよね」
「はい…。それ以外にも色々伺いました。私がもっと隆次さんのそばにいられるようになるには、どういうことを留意したらいいか、などを」
「僕のそばに?」

香弥子さんは再び俯いてジュースを口にした。既にグラスの半分くらい飲んでしまっている。

「はい…あの…私…」

そこで止まってしまってなかなか言い出さないので、僕もオレンジジュースを口にした、その時。
彼女は言葉を詰まらせながら言った。

「私、ちょっと…困ったことが…起こって」

そこで料理が運ばれてきてしまう。香弥子さんはホッとした顔して

「まずは食べましょう」

と言うので、そうすることにした。
パスタとピザを半々にシェアする。

「バジルのパスタなんかで良かったですか? もっと相談して決めれば良かったです」
「僕は何でもいいんです。食べ物にこだわりはそんなにないので」

食べ進める香弥子さんを前に、僕は先程の言葉を反芻する。

困ったこと。

「あの、香弥子さん。困ったことが起こったって、なんですか?」
「い、いま食べているので、続きは食べ終わってから」

赤い顔をしてそう答えた。
僕は「はい」と従うしかなかった。

食事が済むと互いのオレンジジュースのグラスは既に空になっていた。仕方無しに香弥子さんはレモンティーを、僕はコーヒーを頼んだ。

「で、困ったことっていうのは何ですか?」

僕は質問を繰り返した。香弥子さんは真っ赤な顔をして俯いて「今はちょっと…言えないんです」と言った。

「えっ、そこまで言いかけておいて。言いたくないんですか?」
「今は…です…ごめんなさい」
「明日には話せるんですか?」

そう言うと香弥子さんは目を逸らし、しばらく黙った。
お茶とコーヒーが運ばれてきて、香弥子さんはすぐに口をつけたが、熱そうにしてカップを置いた。

しばらく沈黙が続いたが、やがて香弥子さんは口を開いた。

「その…隆次さんのお兄さんと隆次さんの事を話した、あのバザールの日。お兄さんにたくさん隆次さんのこと訊きました。隆次さんのような真っ直ぐで正直で純粋な方、私の周りにあまりいなかったので、感動して…どんな方なのか、お兄さんの目線から聞いてみたくて」

「僕は純粋なんかではありません。歪んでいます。兄が香弥子さんに話していないかもしれない歪んだ部分がたくさんあります」

「多分聞いています。あ、もちろん全部かはわかりませんけれど…。お兄さんは私が感じていたことを言葉にされたので、私の感覚は正しい、と確信しました」
「なんて言ったんですか」

「"隆次の中に嘘は存在しない。いつも真実だけを持っている" と、おっしゃっていました」

僕が呆気に取られていると、香弥子さんは続けた。

「お兄さんはこうもおっしゃいました。"俺とは正反対なんだ" って…」
「正反対…? 確かに色々兄の方が優れていますけれど」
「優劣ではないです。"隆次の心は俺も羨ましいくらい美しくて真っ直ぐだ" っておっしゃっていました。なんかその言葉がすごく印象的で…。ゆえに分かれ道や、道に突然落石などあって予定通り進めない時はちょっと困難になるけれど…。でもそれはASDの症状のひとつでもあるからと私は理解しています」

僕の心が美しくて真っ直ぐだって…?
どこをどうしたらそんな台詞が出てくるんだ?
いじめられていた頃、アメリカにいた頃、東京に出てきた頃。

俺の心はひどく歪んで…。だからこそリストカットしたり、男色に走ったり、銃で撃ったり、兄の子供をどうにかしようとしたり。

嘘だろ、と思った。

「つらい思いをたくさんされて来たことも伺っています。もちろん全てを細やかに伺ったわけではありませんが、私も亡くなった知人がASDでしたので、ある程度はそうであろうと想像もつきます」

「でも…それでどうして…」

「隆次さんの『トリセツ』を作る際のお話で。自分を客観視するのに良いツールになったと隆次さんお話されていましたが、甥っ子さんや姪っ子さんのためにとか、ご自分の身内の役に立ちたいということをおっしゃっていたじゃないですか」
「それは…そうですが…」
「隆次さん自身はつらい思いを重ねてきても、それらは全て隆次さんが必死に生きようとした表れだと思いました。今はとても穏やかになって、誰かのために溢れるほどの愛をお持ちです。お兄さんが寄り添ってくださったことは大きいかもしれませんが、隆次さん自身のポテンシャンルに他なりません」

僕は頭が混乱してきてしまい、よく考えられなくなっていた。

「あぁ…ありがとうございます…。ちょっと混乱してきて…」
「あ…すみません…。たくさんお話しすぎてしまいました…」

僕はカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。




#2-7へつづく

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