【連載小説】あおい みどり #16
~ 蒼
都心の明るい夜空にも、かろうじて見える幾つかの冬の星座。街はクリスマス一色に染まっている。
南條のカウンセリングを "卒業" して約10日。
クリニックの駐輪場から、自転車に跨がろうとしている南條の前に歩み出た。もちろん、仕事を終えて出てくるのを待っていたのだが。
「…蒼さん」
南條は呟くようにそう言い、自転車から足を下ろした。もうクライアントでも何でもないのに、相変わらず瞬時に俺たちを見分ける。
ショート丈のダッフルコート姿は、やはり少し老け込んだ浪人生に見える。けれど手にはキャメル色の上品な革の手袋をはめている。
ダサい格好が計算だとしても、この人の本質は洒落た人であることが滲んでいる。
「…こんばんは、先生」
「もしかして僕のことを、待っていましたか」
俺は黙って頷く。
「あまりこういった所で待ち伏せされると困るのですが」
「…すみません」
南條は据えるような目でじっと俺を見つめた。少しバツが悪いが、そんなことに心臓がバクバクしてしまう。まるで初な男だ、俺は。
やがて南條は小さくため息をつき、自転車を手で押しながらクリニックの敷地を出た。俺も後に続く。
「話があるのなら、事前に連絡してください。"元" クライエントとはいえ、ストーカー行為とみなされかねない」
「…すみません」
さっきから謝ってばかりの俺。
ところが。
「蒼さん、お腹空いていませんか」
「えっ?」
「僕はこれからファミレスかどこかで晩ごはんを食べて帰ろうと思っていたんですが…一緒に行きますか」
まさかの誘い。
俺は意気揚々と「もちろんです!」と答えた。
*
クリニックから少し離れた国道沿いのファミレスに入った。窓際の角の席に通され、向かい合って座った。
テーブルの上にある端末を操作し、南條は何を食べようか真剣に悩んでいる。クリニックを出た直後とは大違いの様子に、むしろ俺は少々戸惑う。初デートでまごついている、みたいな…。
「蒼さんは以前、食べることにあまり関心がないっておっしゃってましたよね」
「う、うん」
「こういう時は、どんなもの食べるんですか?」
「え、そうだなぁ…」
南條は端末を俺の方に差し向けた。
「何でもいいんだけど…。先生は何にするの?」
「僕はハンバーグのセットかな」
思わず俺はプッと吹き出す。
「マジで。子供みたいだね」
「大人だって、ハンバーグ好きで何が悪いんですか」
南條はわざと頬を膨らます。診察室では全く見せることのない顔だ。
「え…じゃあ、俺も…同じの」
「同じだとつまらないですね。じゃあこうしましょう。僕はイタリアンハンバーグを頼みますから、蒼さんはチーズハンバーグ。どうですか?」
「シェアしろってこと?」
南條は笑って「してもしなくてもいいんですけど」と言った。
結局ハンバーグはシェアせず各々食べた。
南條は「何故会いに来たか」は訊かなかった。俺も、俺たちがマンスリーマンションに引っ越したことと、新たなカウンセラーの元に通い出したことを報告した。無論、カウンセラー同士で共有済みだろうが、南條は初めて聞くかのように耳を傾けてくれた。
「それで、翠さんは今はどうしているんですか」
「初回はやっぱ疲れるんだろうな。引っ込んでるよ。気にすることないと思うけど」
「人見知りもあるでしょうから、最初はそうなるでしょうね。僕の時も最初は疲れたと思いますし」
食後にはドリンクバーのホットドリンクを飲んだ。南條はコーヒーが好きだが夜飲むと眠れなくなるとのことで、ハーブティーを飲んでいた。
「そういや夏に先生のとこで、やたら甘いハーブティー、飲まされたな」
俺の言い方に南條は笑った。
「無理やり飲まされたみたいな言い方やめてください」
「いや、なんか変なもん飲んでるなと思って」
「色々考えて出すんですよ。少しでもリラックスしてもらえるように。自分があまりにも不味いと思ったものは当然出しませんが、まぁなくはないな、というレベルのものは提供したりします。僕は自分の味覚をあまり信用していないのですが」
あの夏の日診察室で飲んだ、冷えていない蜂蜜とレモンっぽい味の、あのお茶の味が甦る。けれどもう飲むことはない、おそらく。
「先生、今日は待ち伏せしてごめん。でも俺はすごく、会いたかった。これってストーカーで訴えられちゃうのかな」
「迷惑行為が続かなければ訴えはしませんが」南條はそう言いながら窓の外に目をやった。
「僕なんか、男としては何の魅力もないのに」
「わかってないだけだよ」
「むしろ日和ってるからですか。蒼さんにとって僕がいいなんて…」
「そうじゃないって。男性としてとてつもない魅力があると思うんだ」
そう言っても苦笑いする。俺は南條を襲いたいのか、襲われたいのか。そのどっちもあると気づく。
そして南條はふいに言った。
「僕、実は一度だけ、あるんです」
「何が」
「クライエントに対し、過ちを犯した事が」
「過ち? 医療事故か?」
「関係を持ったんですよ」
唐突な南條の "告白" だったー。
~ 南條
今から10年ほど前。研修医を終え、まだまだ医師としては青二才の30歳だった。
ちょうど今の翠さんと同じ28歳の女性患者が、大学病院勤務だった僕の元を訪れた。彼女は故人に対する喪失感から鬱を発症していた。
治療は順調に進んだかのように見えた。表情の乏しかった彼女が、ぎこちないものの徐々に笑顔を見せるようになっていった。
やがて彼女に陽性転移*が見られるようになる。
本来なら転移が見られた時点で中止もしくは担当を変更するなどの措置を取ることが望ましかった。
しかし当時はまだ明確に好意を示されていないことと、実際に自分がその対象になると順調に進んでいる治療を今すぐ中断すべきか悩み、結局戸惑いながらもそのまましばらく続けた。うまくいけば転移を乗り越えられるかもしれないとも考えた。
彼女は僕によく揺さぶりをかけ、戸惑う僕を見て楽しんでいるようだった。僕もまた、彼女に振り回されることを喜ぶ節があった。逆転移* が起こっていたのだ。
診察中、彼女と語り合う時間が特別な時間に感じた。言葉の裏に隠されたテクスト、それはとても官能的なものだった。危険なゲームだよ。いけないことだとわかっていながら、一線を越えた。転がり落ちるような想いを止めることは出来なかった。
けれどそんな "幻想の愛" はやがて、刃となって新たな傷をつける。
彼女は僕に対する強い執着が見られるようになった。また僕が他の患者の治療を行う事に嫉妬するようになった。
当然、そうなってくるともう治療は破綻する。ようやく僕は医局長に頼み、彼女の担当から外してもらった。
それでも僕らは別れなかった。僕の家に転がり込んできた彼女と半同棲のような生活が続いたが、彼女の依存は益々強く、僕に自分か仕事か選ぶように迫った。
医者になりたての僕は当然のことながら、まだ歩み始めたばかりだ。それを捨てて彼女と生きていく自信はなかった。
やがて僕は彼女を避けるようになる。家に帰らなくなり、病院で寝泊まりする事もあった。たまに家で顔を合わせた時は大喧嘩になった。
僕はついに彼女に別れを告げた。
しばらく悶着があったものの、ある日突然彼女は姿を消した。
ホッとしたと当時に怖くなった。彼女の消息を知ることが。
しばらくして彼女が亡くなったことを知る。交通事故とのことだった。
本当にただの事故なのか。自分に原因があったのかどうかは、今でもわからない。考えたくもなかった。
僕は何のために精神科医になったのか。疾患が原因で行き場をなくした心に寄り添いたかったはずだ。それなのに、患者と関係を持つという絶対禁忌を犯し、しかも彼女は亡くなった。
僕はしばらく廃人のようになった。
たまたま会った大学時代の恩師に僕は全てを打ち明けた。彼は言った。
『精神科医の恋愛は恋愛なんかじゃない。思い上がるな!クライエントが根本問題を乗り越えるための大事なステップなのに医師が梯子を外してどうする。今すぐ自分を戒めろ! 精神科医はこれからどんどん需要が高くなる。人材は必要不可欠だ。二度と道を外れるな!』
僕は志を新たに、大学院に通い臨床心理士の資格を得た。二度と過ちを侵さないようにと、あえてカウンセリングの現場を選んだ。
それでも転移はある。そんな時はすぐに別のカウンセラーにチェンジしてもらう措置を取った。転移には陽性も陰性もある。冷たい対応だと、根に持たれる事もあった。
そんな風に過ごす内に、僕は愛を遠ざけるようになり、性愛を忘れていった。患者には尽くすが、それを愛と履き違えないように…患者に愛など感じたり、与えたりしてはいけないと、肝に銘じると言うよりは、極端に恐れていたのかもしれない。
翠さんと蒼さんが僕の前に現れ、僕はまざまざと思い出した。
幻想の愛を交わし合い、突然消えた、彼女のことをー。
「どうしてその話を…俺に?」
「どうしてでしょう。僕のクライエントでなくなったことを良いことに、気が緩んで調子に乗ったかな」
アルコールが入った訳でもないのにと、南條は困ったように笑った。
「その女に、翠が似てるっていうのか?」
「いえ、全く。けれどまるで降りてきたかのように、思い出したんですよ」
「なんで…」
南條はその質問には答えず続けた。
「カウンセリング中は自分の身の上話をすることはほぼあり得ません。こんな話、僕は誰にもすることはなかった。実家の家族にも、友人にも」
「…」
「ある意味、蒼さんだったから、かもしれません」
「俺だから?」
「こんな矛盾だらけの僕でも、好きと言えますか。今まで蒼さんが見てきたのは、仕事をしている僕です。それは演じていると言ってもいい。舞台を降りた僕を見ても、あなたは好きと言えるのか」
茫然と、俺は南條を見つめた。
今目の前の彼は医師の顔ではない。
傷ついた、翳りをまとう男の顔だ。
むしろ、愛おしさが激しく増した。
寂しい人なのだ。きっと愛されたいのだ、と思った。
*
店を出た俺たちは暫し無言だった。南條は手で自転車を押しながら、足は駅に向かう。
俺の頭の中では一つの言葉だけが渦巻いている。
"抱き締めてもいいですか"
あんな話をした後の南條の心情を思うと憚られはしたが…、むしろ、だ。
俺は決めた。
「先生、いやもう俺たちの先生ではないから、南條さん」
そう言ってそのまま、抱きついた。
ガシャンと音を立てて自転車が倒れる。
「あ…」
南條は強張っているが、放心しているようにも思えた。
冬なのになんて熱い身体なんだろう。
俺の頭の中は真っ白になり、身体の熱が伝播してくるのを感じていた。
#17へつづく
【用語解説】
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