
【掌編小説】夜と木蓮
その人は木蓮の樹の下にいた。
仕事帰りの通りすがり。遊歩道。木蓮の樹の下にベンチがあった。
ベンチに座り、スマホを操作していた。画面の光が下からその人の顔を照らす。
黒い服は宵闇に馴染み、頭上の白い木蓮とのコントラストを描いていた。
一日の軽い徒労感のある日常の1枚の絵のように、脳裏に焼き付く。
私は佇み、しばらくその絵を眺めていた。
ふいにスマホから顔をあげ、目が合う。若干の後ろめたさを感じ目を逸らしたが、再び目をやるとその人もまだ私を見ている。
慌ててその場を立ち去ろうとすると「待って」と声を掛けられた。
恐る恐る振り返る。
立ち上がったその人の頭上で木蓮の枝が風に揺れる。まるで歌を歌っているかのように。
その人も「待って」の後の言葉が続かない。ただ見つめ合う。なぜ、呼び止めたのか。
「あの…」
沈黙を破った小さな一言に、その人も我に返ったように姿勢を正す。
「あ…すみません。その…あなたと、あなたの頭上の木蓮が…その…」
私はハッとして振り向き、見上げた。
私の頭上にもまた、木蓮の枝が揺れている。
言葉を忘れ、しばし見上げた。
向き直るとその人は微笑んでいるように見えた。
「私も…全く同じことをあなたに…」
その人も頭上を見上げ、あぁ、と言って笑った。
「その…木蓮が好きで…宵に映えるので…」
「私もです」
そんな偶然が、こんな都会の片隅の、すぐに忘れ去られるような一瞬の絵に収まる。
私たちはまた互いに頭上を見上げて、再び微笑んだ。
その足元では、落ちた大きな花弁を流していく風。
春の暖かさを充分に湛えていた。
END