【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#4-3
すっかり日も暮れた時間。僕らは香弥子さんの実家を出た。
昼間の暖かさを吹き飛ばすような北風が吹いており、香弥子さんは僕に腕を組んできて身体をぴったりと寄せた。
「なんて良いご両親なんでしょうか。うちと大違いです」
「まぁ…うちは海外で暮らしだったり女ばかりだったり…隆次さんのお家とは確かに少々対称的かもしれませんね」
都心へ向かう在来線は、黒やグレーのコートで着膨れた人たちで座席は程よく埋まっていたが、その中で香弥子さんの鮮やかな紫に金色の糸の刺繍が施されたヒジャブが余計に目を引いた。
皆がチラチラと見ても、香弥子さんは堂々としている。
ふわりと、ローズオイルが香る。
家に戻り、香弥子さんの両親への挨拶が済んだことで、年末の実家再訪の件も含めて兄に報告しようと思った。電話を掛けるそばには香弥子さんが寄り添ってくれた。
『そうか。返って俺が居ない方が事がスムーズに進んだかもな』
「そんなことはない。兄ちゃんが最初に立ち会ってくれなかったら、俺は足が震えて実家の門をくぐれなかったかもしれないし」
『それで、向こうの両親は全てを快く承諾してくれたってことか』
「うん」
『…いつ入籍を?』
僕は香弥子さんと顔を見合わせた。
「それはもう少し先に」
『そうか。俺は見届けられそうにないか』
「…」
『まぁ慌ただしくなるのも良くないからな』
「ごめん」
『謝ることはない』
「兄ちゃんの出国、いつか決まったの?」
『3月26日、11:10羽田発のルフトハンザドイツ航空、フランクフルト行きだ』
「3月26日…」
僕のつぶやきに香弥子さんがスマホを操作した。スケジュール登録をしたのだと思う。
『家財はほとんど処分だからな。比較的身軽だよ』
「日本に戻ってきたらまた再調達か。大変だね」
『それはまた先の話だ』
先の話。2年か3年か。はたまたもっと先か。わからない。
『発つ前に一度隆次のとこに行くよ』
「うん。香弥子さんも会いたいって」
香弥子さんを見ながらそう言うと、彼女も大きく頷いた。
電話を切ると香弥子さんは言った。
「お兄さん、見届けたがってましたか。そうですよね。これまでとっても大切にされてこられた隆次さんの晴れ姿ですもんね」
「こうなったらドイツから呼んでやりますよ」
「お車代のために節制しないといけませんね」
そう言って香弥子さんは笑った。
* * *
2月に入りしばらくしてから、約束通り兄が家にやって来た。たまたま14日だった。仕事帰りに現れた兄は、学生の頃と何ら変わらず、カバンの中からチョコレートやお菓子をぶちまけた。
「うわあ、お兄さん、会社でもめちゃくちゃモテてるんですね!」
「最近は職場でチョコを配ったりするのはダメっていう話も出ているんだけど、部下はくれる。これなんか、男性部下からだぞ」
そう言って手にしたのは、何かと話題になるブラックサンダー、大量に。
「エビで鯛を釣りたいんだそうだ。3月14日よろしく、と」
「はっきり言っちゃうんですね、そういうこと」
「そういう奴だからな」
香弥子さんがいくつかおすそ分けしてもらい、残りは自分の家族に渡す、と兄は言った。
「私の職場でもチョコ配りを強制にはしないものの、やはり日頃の感謝の気持ちは込めようかなと思って、男性女性別け隔てなくちょっとしたものを配ったりしました」
「そんな感じでいいんだろうね」
お茶淹れます、と香弥子さんがキッチンに立ち、兄はいつものようにペルシャ風マットの上に胡座をかいた。
「挨拶まわり、ご苦労さんだったな」
「香弥子さんの両親、うちと大違いなんだ。まだ若いし。びっくりしたよ」
「大方、一般的なのはむしろそっちの方だろう。うちが変わってるんだ」
「それで入籍する時は、僕は "熊谷" 姓になるから」
「そうか。…いつか、まだ決めてないのか」
「うん…まぁ4月は越すだろうなとは思う」
「わかった。決まったら事前に連絡はくれよ」
そこへ香弥子さんがお茶を淹れて持ってきた。彼女が自分の家から持参してくれた、美しい装飾のトルコ風チャイグラスだ。アールグレイの芳しい香りが漂う。僕にとっては初めの頃は少し強い芳香で苦手だったけれど、慣れてきた。
香弥子さんはブラックサンダーを頬張った。
兄は並んで座る僕らを見て目を細めた。そして
「良かったな…本当に」
そう言って微笑み、チャイグラスを手にした。香弥子さんもニッコリと微笑んだ。
「そうだ、お兄さん。これを」
香弥子さんはそう言ってカバンから小さな包を取り出した。
兄が封を開ける。
「これは…ファティマの手だな」
「流石にご存知ですね。ハムサとも言います。お守りに」
ファティマの手とは預言者ムハンマドの四女であり、イスラムの世界でも最も慈悲深いとされる女性ファティマの手をかたどったもので、手のひらモチーフの真ん中に目あるいは目玉があしらわれている。この目が悪を睨みつけ追い払うという。
中東の広い範囲で護符・お守りのようなものとして用いられている。が、ユダヤ教でも同様のモチーフ(ミリアムの手と呼ばれる)があるのが興味深い。
ハムサというのはアラビア語で「5」。5本の指という意味でもある。
香弥子さんから渡されたハムサは実際の手のひらよりも2回りほど小さく、中指の先に「ナザールボンジュウ」という青い目玉のような石もぶら下がっている。これもファティマの手の中にある目と同様の意味合いを持つようだ。
「旅が無事でありますよう、悪事を払い除け平穏な日常でありますよう、そしていつか無事に帰ってこられますよう、祈っています」
香弥子さんはそう言い、兄は静かに「ありがとう」と答えた。
「以前からお兄さんって呼んでしまっていますけれど、次にお会いする時は本当に "お義兄さん" になっていると思うと不思議です。お話したように女ばかりの3姉妹でしたので、お兄ちゃんってずーっと憧れでした」
「俺も妹は憧れだったよ」
「俺が女の子じゃなくて残念だったね」
僕がそう言うと2人とも笑った。香弥子さんは本当に "お義兄さん" と呼べるようになるまでは兄の前でもヒジャブ(スカーフ)は外さない。
「そうだ。うちで処分するもの、良かったら新居に必要なものがあればあげるよ。春彦が引っ越してくることで余るものもあるから。今度うちに物色しに来れば」
「わぁ、いいんですか。助かります!」
香弥子さんが嬉しそうに顔をほころばせた。
僕は徐々に、兄が去っていくのだな、と感じた。
#4-4へつづく