【連載小説】あなたに出逢いたかった #30
一方、11月に入った稜央の地元では、あちこちで紅葉が見頃となっていた。
実家の近所には楓の並木があり、鮮やかなオレンジから赤に色付き、週末は地元民に加え観光客も散策する姿が見られた。
横浜から2~3週間くらい経った頃から、梨沙からのメッセージがポツポツと届くようになった。以前のように情熱的にグイグイ来るメッセージではなく、日々の仕事の疲れを労ったり、ちょっとした出来事を伝えてきたりと、控えめなメッセージだ。稜央もあんな事を言った手前、出来る限り返信するが、彼女に対するいじらしさが増していくのがわかる。
梨沙としては横浜の一件以来に遼太郎とはギクシャクしており、その満たされない気持ちが自然と稜央に向かっていった。
こんな内容のメッセージと共に写真と、梨沙の描いたスケッチが添付されてくる。彼女の才能には舌を巻くが、日常の何気なさを拾い、それを形にしていく繊細な感性にも感嘆した。
そのうちに彼女は段々と身の上話をし始める。
幼い頃から感覚過敏・共感覚があって、周囲との違和感を憶えることが多かったこと。それは家族でさえも居心地が悪い時があった。ただ1人、父親を除いて。
幼少期に父親の仕事の都合で数年間ドイツで暮らしたこと(この話は、稜央が遼太郎から招待を受けてワルシャワを訪れた時期と重なることにすぐに気付いた)。
帰国子女となってからは学校に馴染めず辛かったこと。そこで絵を描くことに逃げ込んだこと。本当はドイツで暮らしたいから高校1年で留学に出て、そこで稜央と出逢ったこと…。
梨沙は、これまで生きづらさを抱えて過ごしてきたことが文面から垣間見えた。
稜央はそれが、痛いほどよくわかる。
稜央も子供の頃から人とつるむのが苦手で、なるべく人が近寄らないように無表情で、素っ気ない態度で過ごしていた。口を開くと喧嘩になりがちだった。
更に彼は小学生の頃、継父から虐待を受けていた。陽菜が生まれる前後で2人切りになることが多くなると、継父は3人で過ごしていた時には見せなかった "別の顔" を見せるようになる。
そもそもいきなり10歳にもなる息子が出来、しかも愛想がなく陰湿な印象だった。稜央がそばにいるだけで腹立たしく思う継父の暴力は日に日にエスカレートしていった。
結局、陽菜が生まれてしばらくすると、2人は離婚した。桜子と稜央と陽菜、3人の慎ましい暮らしが始まった。
『あんたにはね、お父さんはいないんだ。ごめんね』
小さい頃から桜子にはっきりとそう言われて育ってきた。もしも本物の父親がいたら、母はあんなに自分に謝らなくて済んだのだろう。そうして自分も、こんな目に合うこともなかったのだろう。
そんな稜央は "音" に逃げ込んだ。ピアノを弾くことは、言葉にできない、ならない気持ちを吐き出す手段だった。きちんと学んでいないためレパートリーは限りがあったが、代わりに精度を上げた。中学以降では音楽概論も独学で学び始めた。表現力を磨けば磨くほど満たされた。
そして今17歳の梨沙に、17歳だった頃の自分を重ねる。
母の卒業アルバムをこっそり拝借し、父の姿を初めて認識した、あの頃。
似ている。
すごいな。そんな所でも繋がるんだ。あの人の子どもである俺たちは。
陽菜が完全に母親似なら、梨沙は…俺と梨沙は、父親似なんだと痛感する。
同じ魂を分かち合い、長い長い螺旋の途中で出逢った俺たち。
思わずそう言葉をかける。あの頃の自分が求めていたように。どこかで手を差し伸べて欲しかったように。
稜央はそんな梨沙がいじらしくてたまらなかった。
こうして2人は少しづつ心を通わせていく。季節の移ろいと共に。
***
「梨沙」
ドアの向こうで遼太郎の声がし、ハッと顔を上げた。日曜の遅い朝、部屋でグダグダしていた梨沙は慌ててベッドから飛び起きるが、ドアの前で一瞬躊躇する。
「起きてるんだろ?」
もう一度声がし、恐る恐るドアを開けた。
「パパ…」
遼太郎の表情はここ最近ずっとやや険しかった。が、彼は梨沙にある包みを差し出した。
「え、何、これ…」
開けるとそこには見慣れぬ物体があった。太く長いゴム、プラスチックの棒のようなものから丸い小さな錘が紐でぶら下がっている。
「弓、教えてやる約束だったろ。予定がないなら公園に行くぞ」
それはゴム弓だった。
顔を上げると既に遼太郎は廊下の奥に消えていた。
「待って、いま支度するから!」
梨沙は服をじっくり選ぶ時間もメイクをする時間もないまま、誕生日プレゼントでもらったリップだけは唇に引き、慌てて外に飛び出した。
*
マンションのエントランスを慌てて出ると、遼太郎は夏希の自転車に跨り、ハンドルを弄んでいた。
「後ろ、乗っていくか?」
「えっ、自転車で行くの? 2人乗り、お巡りさんに見つかったら怒られるよ」
「お前、案外真面目なんだな。見つからなければいいんだろ。見つかってもその時降りればいいだろ」
梨沙はおずおずと荷台に横座りし、背後から遼太郎の腹に腕を回すと、彼の白いシャツが頬に優しく触れた。フワリと鼻腔をくすぐる香り。
眩暈がした。身体も心も溶けそうになる。
「梨沙、摑まるならちゃんと摑まって」
その声は背中から直接耳へとくぐもって響いた。腕に一層力を込めると、自転車はふらつきながら何度も軌道修正し、東へ向かってこぎ出した。
「パパ、自転車乗れるんだね」
「バカにするな」
運河を渡る晩秋の風が水面で反射する陽の光を受け、梨沙の剥き出しの白い脚を撫でていく。晴れた日中でも涼しさを越して冷たさを感じたが、反して背に触れる顔、胸、そして回した腕は熱い。
特に会話もなく自転車は走っていく。細い梨沙は軽いのか、思ったよりもすいすいと進んでいく。
梨沙は時折、シャツの上から遼太郎の背に口付ける。しかし彼は何も言わない。
梨沙は運河沿いに建ち並ぶマンションや団地のベランダにたなびく洗濯物にぼんやりと目をやった。あの箱の向こうにそれぞれ暮らしがある。愛もきっとある。
ひとりぼっちも、たぶんある。
自分みたいな子はいるんだろうか。
更に上を見上げる。少し燻った青い空。名前は分からないが鳩よりは大きそうな鳥が数羽、頭上高く東から西へ渡っていく。
不思議な時間だった。
昨日までと、明日以降、ぶっつりと切り離された『今日』を感じていた。
やがて自転車はハンドルを切って止まり「降りて」と上から声が降って来た。高台にあるいつもの公園のふもとにやって来ていた。ここからは階段や坂道を上がって行く。
正午まで間もない日差しを受けて、木々は紅や金色に輝いていた。欧州の秋は黄金だから、紅が混じるとやはり日本っぽいなと痛感する。
耐え忍ぶ冬に備えて最後の情熱を燃やし尽くすかのような紅に、梨沙は自身の想いを重ねた。
風が枝を揺らし、梨沙は目を閉じて鼻から深呼吸する。子供の頃からいつもそうしていたように。
「梨沙、行くよ」
遼太郎はそんな梨沙をしばらく見つめた後、芝生の広場へと歩いていった。慌てて梨沙もその後を追った。
#31へつづく