あなたがそばにいれば #9
Ryuji
『…と言うわけだからちょっと俺は一緒に行けないけど、大丈夫か? これまでも何度か隆次一人で行ったことあるし』
「うん。仕方ないだろ。気が向かなかったら行かないから」
兄は電話の向こうで小さくため息をついて「ま、それでもいいけどな」と言った。
毎週木曜の夜は、兄と一緒にASD(自閉症スペクトラム)の交流会に参加していた。
一時期は一人で行くこともあったがあまりうまくいかず、兄に子供が産まれて少し落ち着いた頃から、また一緒に行ってくれるようになった。
ルーチン予定が変わるのは苦手だけれど今度の木曜は仕方ない…多分行かないと思う。
『薬はまだ残ってたよな?』
「通院の日はまだ先だよ。大丈夫。ちゃんと飲んでるし、飲むから」
『もちろん信用してるけど』と兄は言った。
「土産買ってきて。ドイツって言ったらやっぱりソーセージでしょ?」
『悪いが肉は検疫で引っかかるからな。持って帰れないんだ』
「ちぇっ」
『隆次は酒もあまり飲まないしな…ベタなものでいいなら適当に選んでくぞ』
「ベタでいい。マグネットとかマグカップとか。どうせ俺がドイツなんて行くことないだろうし」
『そんなのまだわからないだろう?』
「兄ちゃんが一緒に行ってくれるなら行くよ」
『考えとくよ。じゃあな』
電話を切った後、再びPCに向かって作業を始めた。
僕の仕事は24時間365日、規定の従事時間内であればいつやってもいいことになっているが、僕は規律が乱れるのが苦手なので、前半は午前2時~6時、後半は8時~12時で業務にあたっている。
オンラインでしか会ったことのない上司からは「管理しやすくて助かる」と言われた。
企業のサイバー攻撃に対して出元を分析したりセキュリティを強化する対策を施したりする。ホワイトハッカーのようなこともやる。
会社に行かなくても家で出来るので、僕のような人間に向いている。
* * *
僕は中学生の頃、アスペルガー症候群と診断された。
今は自閉症スペクトラム(ASD)と言う。
僕は特定のメーカーの白いワイシャツ以外は着ない。タオルも白以外は使わない。
小さい頃から数字に興味があり、小学生で既に数学論の本を読んでいた。好きな数学の話をすると、誰もが白けた。
時間のルーチンがずれることが苦手というか、落ち着かなくなる。
自傷行為もあったので他の発達障がいも併発している。
僕の頭の中は生まれつきおかしいってことだ。
誰と話しても噛み合わないし、嫌がられる。僕はどうして嫌がられるのか、よくわからなかった。
両親でさえ、煙たがった。兄が優秀だったから尚更だった。いつも比べられて、蔑まれた。
でも兄は…遼太郎兄ちゃんだけは僕に優しかった。
話し相手は兄だけで、両親から庇ってくれるのも兄だった。
歳が10も離れているから、子供の頃一緒に遊んだ記憶はない。
ただただ「かっこよくて」「優秀で」「兄ちゃんだけは敵わない」と思っていた。
兄は親から期待されていたにも関わらず、それを無視して自分のやりたいことやりに、大学の時に家を出た。
それを見て子供ながらなんてカッコいいんだ、と思った。
同時に出て行ってしまったことは悲しかった。裏切られたような気持ちにもなった。
だから僕も高校に入る時は日本を出てアメリカへ渡った。
アメリカにいた頃、自分も周囲もクレイジーになっていて、僕は友達の銃でふざけて人を撃ったりした。
そのことを真っ先に告白したのは、兄だった。
10年近く連絡していなかった兄とその件で連絡が出来たのは、本当に本当に救いだった。
僕の中で何かが溶けていくような感覚があった。
還る場所なんてどこにもないと思っていたけれど、兄の声を聞いて僕は日本に戻った。
兄の結婚を機に初めて連絡先を交換して、交流するようになった。
兄の結婚は、僕に多くの衝撃をもたらした。
兄はそれを、僕が義姉さんのことを好きになった、と勘違いしたようだったが。
あの頃は僕もその気持をどう言い表して良いかわからなかったが、義姉さんではなく、兄に対する強い感情があったのだ。
兄が僕以外の誰かに心を向ける。その存在が僕にとって、どういうことになるのか?
兄をとりこにした義姉さんは、一体どんな存在なんだろうか?
今思えば、そういうことだったと思う。
兄に子供が出来た、と聞いた時、僕が荒れてしょうがなかった。
兄が血を分けた『子供』という存在だ。
生物学的には理解出来ても、兄が血を分けた、という事に激しい嫉妬を感じた。
その時、僕は久しぶりに手首を掻き切った。
それもどういうわけか、兄にセンサーか何かが通じていたのか、すぐに駆けつけてくれたんだ。
そして僕を抱き締めてくれた。
「近くに引っ越して来い」と言ってくれ、何かあればすっ飛んで来てくれた。
そしていつも言ってくれる。
『大丈夫だ。安心して。俺がいるから』
『お前は誰よりも優秀なんだ。みんながちょっとついて来られないだけだ。自信持て』
そんなこと言うのは、僕の人生で兄だけだ。
僕のそばにいてくれる、唯一無二の存在だ。
僕は兄のことを神以上の存在だと思っている。
兄に何かあったら、僕は相手が誰であっても許さない。
家族でさえ、国家でさえ、絶対に絶対に許さない。
どうせ僕は世間から煙たがられてるんだから、自分の命なんて簡単に兄ちゃんのためにくれてやるよ、と強く思っている。
#10へつづく
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