【連載小説】あなたに出逢いたかった #31
遼太郎は立ち止まり、大きなユリノキを見上げて言った。
「ここにしよう」
公園の南端にある広場で、視界の先には東京湾に注ぐ大きな川が緩やかに流れ、空港を飛び立った飛行機が頭上を横切っていく。
胡座をかく遼太郎のすぐそばに梨沙も腰を下ろした。遼太郎はトートバッグからゴム弓を取り出す。
「弓を持つ手…左手のことを弓手、弦を引く右手のことを馬手という。弓を引く時、弓手は弓を握るのではなく、押すんだ。こんな風に」
遼太郎は実践して見せる。「やってごらん」
梨沙も真似してみるがコツが全くわからない。遼太郎が左手を添えて教えてくれる。「親指の付け根で押して、小指で絞める。3本の指は添えるだけ」
自分の左手に遼太郎の左手が重なる。未だに梨沙の手をすっぽりと覆ってしまうほど、大きな優しい手。
「弓を引くのに八つの大事な所作がある。それを射法八節という。実際にはもう少し細かい所作が入るが」
そう言って遼太郎はスマホの画面を梨沙に差し出した。
「足踏み・胴造り・弓構え・打起し・引き分け・会・離れ・残心、だ」
イラスト付きのそれを見ながら解説を終えると遼太郎はゴム弓を持って立ち上がった。そうして的に見立てたユリノキに向かい脇を大きく開けて両手を腰にあて、顎を引いた。
頭は真っ直ぐに伸び、背中から腰へ美しい曲線を描いている。それだけでもまるで能役者のように雅な佇まいだ。遼太郎の姿勢が普段から美しいのは弓道に由来しているのだとわかる。
白い道着に鉄紺色の袴姿の遼太郎が重なって見えた。
「足踏みは的に向かって真っ直ぐ二、三歩進む」
スッスッと、すり足のようにして澱みなく進むと、ユリノキに向かい90度右を向き、両脚を開いた。
「胴造りは足腰をしっかり固めること。後ろから蹴られても倒れないくらいに」
「そんなの無理だよ」
「無理じゃないよ」
次に弓手に持っていたゴム弓を前に出しゴムを馬手で摑むと、太鼓を抱えるように脇を広げた。これは『弓構え』という。
「構えたら的の方へ顔ごと向けて、両腕を頭の斜め上辺りまで真っ直ぐに上げる。ゴム弓についた錘がブレないように真っ直ぐにな。これが打起しだ」
遼太郎は再びユリノキに顔を向け、弓手をその方へ伸ばした。馬手は肘から折れ、それについて行く。
そうして右肘は真っ直ぐ後ろに、弓手は的に向かって真っ直ぐに押し出し胸を開いて行く。これが『会』である。
まるで舞踊のように滑らかで澱みのない動きに、梨沙は口を半開きにして見惚れた。その目にはまだ袴姿の遼太郎が重なっている。
同時に川嶋桜子の姿が過ぎる。梨沙の胸が破裂しそうになった時、馬手からゴムがバシンと音を立てて離れた。これが『離れ』で、伸びた両腕以外、他の身体の部位は微塵も動かなかった。これが『残心』である。
両手が元の腰の位置に戻り足を戻すと、小さく一礼してから目を梨沙に向け小さく微笑んだ。
「大体わかったか?」
「は…」
「やってごらん。見ててあげるから」
ゴム弓を受け取り、梨沙はユリノキに向かい立つ。遼太郎は背後に立ち、文字通り手取り足取り所作を教えた。
“川嶋桜子にも、こんな風に教えたのかな”
中学から弓道をやっていた遼太郎は、中学では陸上部だった彼女に、こんな風に教えたのではないか。部長だったのだし。彼氏だったのだし、たぶん。
妬きもちでカッと身体が熱くなったけれど、また次の瞬間、稜央の姿がよぎる。
過去の遼太郎に出逢いたくて川嶋桜子になりたかった梨沙は今、幻想の中で稜央の手を取ろうとしている。
「馬手は腕で引くのではなく、肘で引くんだ。肘に集中してみて」
ハッと我に返る。そう言われてもコツが全くわからない。遼太郎は右肘に手を添えるが、意識しすぎて右に傾く梨沙の上半身を脇から修正した。
「"離れ" の瞬間は自分のタイミングで良いが、早すぎても遅すぎてもいけない。高めた瞬間に離せ」
馬手を離した。遼太郎が弓手に手を添えてくれた。
さあっと風が吹き抜け、梨沙たちを取り囲む木々がさざめいた。
「どう?」
「うん…」
川嶋桜子になった気分だ、とは言わなかった。
「ちょっと自分一人でも何度かやってみてもいい?」
「もちろん」
何度か射法八節の動作を繰り返すうちに、遼太郎のサポート無しで引けるようになった。
「お前…筋がありそうだな。綺麗な姿勢を保ってるよ。さすが俺の娘だな」
ここしばらく見なかった、穏やかな笑顔の遼太郎がいた。
「興味出てきたか?」
「うん…でも一度、パパがちゃんと引く所も見てみたい」
遼太郎は梨沙の手からゴム弓を取ると打ち起こしから会までの動きを何度か繰り返した。
「リハビリすれば何とかなるかな。お前も一緒に道場に通うか?」
「やれるかわからないけど…」
「お前、来年受験生だしな」
けれど川嶋桜子がやっていたのなら自分もやりたい。梨沙の中にはそんな嫉妬・羨望が渦巻いていた。自分が弓道をちゃんと始めるか、続けるかはわからない。
「よし、じゃあそろそろ帰ろう。夏希が買い物行くのに自転車がないって怒り出すからな」
「断って来なかったの?」
「乗るつもりはなかったんだよ。ただちょっと目に入って、解錠も出来たからさ」
そう言ってイタズラっぽく笑った。
あぁ笑顔が戻って来た、良かったと梨沙は心の底から安心した。
だからもうあの話題は触れないでおこうと思った。
「帰りは梨沙がこぐか?」
「後ろにパパを乗せて? 大怪我したいつもり?」
遼太郎はまた笑った。
***
メッセージを受け取った稜央はヒヤリとした。"父" が話題に上がったのと、弓道について触れたこと。
桜子も元弓道部、遼太郎とは部員仲間だ。桜子の高校の卒業アルバムで2人が一緒に写っている唯一の写真が弓道部のものだった。稜央はそれ以外の2人の写真の存在を知らない。
稜央はため息をつく。彼女にしてみればこんな話題は何でもない、ごくごく普通の世間話だ。
けれど稜央にとっては違う。
少しずつ、近づいて来ている。その足音は、彼女の華奢な身体からは想像も出来ないほど重く響く。
稜央は改めて現実を思い知らされた。
最初からわかっていたはず。接触してはいけないことくらい。
そして再会してしまったからには、梨沙がパンドラの箱を開けるのは時間の問題だった。いや、むしろ稜央は自ら箱の鍵を渡したようなものだ。
梨沙が箱に手をかけた時、その時俺はどうする? 前回そうしたように、また連絡先を断ってトンズラするのか?
それとも、罰を受けるのか?
俺が守るのは、どっちなんだ?
返信出来ずにいると、陽菜からのメッセージを着信した。
こちらにもまたヒヤリとした。稜央がベルリンで梨沙に出逢ってから1年が経とうとしている。
母さんがドイツに行く…行く気になったのか。いや、行きたくないなんて聞いたことはないが、父さん縁の地であることは知っているはずだ。
母さん自身まだ、父さんのことが心に引っ掛かっているのは確かだ。
何を思って行く気になったのだろう…。俺の考え過ぎか…。
あれこれ思い巡らせていると、またメッセージの着信音。今度は梨沙から。長い長いメッセージだった。
そしてそれはついに『私を助けて欲しい』と訴えた、あの内容に直結するものだった。
#32へつづく