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あなたがそばにいれば #25

Natsuki

ふと目が覚める。
授乳のために泣き始める蓮の声がしないな、とぼんやりと思った。
部屋はまだ薄暗い。夜明け前か。

そして横にいるはずの彼がいないことに気づく。

飛び起きて自分の部屋に行くと、ベッドで寝ているのは梨沙だけだった。

リビングにも誰もいない。バスルームにも、どこにも。

夫と息子が消えた。

頭の中芯がヒヤリとする。まるで鋭い冷気が錐のように突き刺すような。

昨夜の会話を思い出す。
本当に消えてなくなるみたいなこと、どうしてするの?

スマホを取り出し、彼の番号へ掛ける。

しばらくコールが続いたが、出た。

「今どこにいるの!? 蓮も一緒なの?」
『うん、ちょっと朝の散歩…。心配しないで』
「こんな早い時間に…? まだ明けてないよ…」
『目が醒めちゃったんだ。蓮も泣き出したし…ちょっと気分転換がてら』

声は穏やかだった。

彼が蓮と2人で出かけるのは初めてだった。
何故か胸騒ぎがする。

「すぐ帰ってきて」
『大丈夫だよ。海外に飛んだりするわけじゃあるまいし。近くにいるから』
「蓮だってお腹空くでしょ」
『持ってきたよ。梨沙の時に散々やったからその辺はちゃんと…心配しなくて大丈夫』

風の音が聞こえる。つまり風通しの良いところを歩いているということか。

しばらく無言が続き、やがて彼は言った。

『梨沙をよろしく頼むね』
「待って、どういう…」

既に通話は切れていた。

"梨沙をよろしく頼むね"

「何…どういうこと…?」

掛け直すと、電源が切られているアナウンスが流れた。

全身がガクガク震えだす。
1月に彼がドイツに出張している最中に事故のニュースを観たあの時と同じだった。

約束したのに。
どこへも行かないって。私を一人にしないって。そばにいるって。
約束したのに。

私は深呼吸をして、アドレス帳を開いた。
震える指で隆次さんの番号をタップする。

彼はすぐに出てくれた。

「隆次さん? 朝早くにごめんなさい、夏希です」
『仕事していたので大丈夫です。朝っていうか夜明け前ですね。どうしたんですか』
「実は…遼太郎さんが蓮を連れて出ていって…散歩だって言うんですけど…」

そう言うと隆次さんも息を呑むのが聞こえた。

『散歩って言ってるなら散歩なんじゃないですか?』
「でも様子が変なんです。"梨沙をよろしく頼むね" って…なんか遺言みたいじゃないですか」
『マジすか…嫌な予感だな』
「電話の電源も切られたみたいで…。隆次さんのところに毎週行っていますし、なにか心当たりがないかと」
『今どこに行ったかは…わからないです。何をしようとしてるのかは何となくわかります』
「何を…」

その先は恐ろしくて想像できなかった。

『いや、でも』

隆次さんは言い直した。

『絶対戻ってきますよ、お義姉さんのところに。待ってれば大丈夫、たぶん』
「たぶんって…何をしようとしているんですか?」
『とにかく、待っていれば大丈夫だと思います。変なことにはならないと思います。一人で待っているのが嫌ならお義姉さんも外に出たらいいじゃないですか。とにかく、兄はお義姉さんを残して消えるとかいなくなるとか絶対にしないです』

私は昨夜のベッドでの会話を思い出した。
彼は「俺がいなくなったら、どうする?」と訊いたのだ。

「でも…」
『でも、じゃない。絶対にしないから、マジで。どんだけお義姉さんのこと大切にして、お義姉さんのこと必要としているか、俺、何度思い知らされたことか』
「でも今こうして連絡を絶っているのは…」
『だから!でも、じゃないってば。兄ちゃんも色々闘ってるんだよ。最近は結構ギリギリの状態だったと思うよ。根本原因が何なのかは俺も結局わからなかったけど…直接的にはお義姉さんのことで頭がいっぱいなんだよ。お義姉さんを守ることが自分の使命だって思ってる男なんだよ』

熱のこもった隆次さんの話に、言葉をなくした。

『だから信じて待っててやってよ。男なんだからたまには見えないところで勝負つけてくる時もあるんだからさ』

隆次さんの話はよくわからなかったけれど、なだめようとしてくれる意図は汲み取れた。
不安が消えたわけではないけれど、少なくとも闇雲に外に飛び出すことはしてはいけない。

「隆次さん、ありがとう…。待ってみます」
『愛されるってすごいですよね。僕は兄に愛されていることを感じています。でも僕のこと以上に兄はお義姉さんのこと愛してるんですよ。兄は強い人です。勝負には絶対に勝ってきます』

私が受け入れたから彼の熱もおさまったのか、口調が元に戻っていた。
私はお礼を言って電話を切った。

* * *

やがて太陽が昇り始める。

気がつけば9月も半ばになり、もうすぐ秋分の日。昼と夜の長さが同じになって、季節が移っていく。
今はまだまだ暑いけれど、心も身体も凍えるような思いだった。

目を覚ました梨沙と2人でテーブルに着く。

「パパ、蓮と出かけちゃったよ」

そう声をかけるともう言葉を理解するのか梨沙はみるみるうちに涙を浮かべ、パパぁ、と泣き出した。
慌てて抱きかかえてあやす。

「ごめんごめん。きっとすぐに戻ってくるからね。たまには蓮にパパを貸してあげて」

それでも大粒の涙をぽろぽろ零しながら「パパぁ」と呼び続ける。
私も悲しくなってきた。

本当に戻ってくるのだろうか。

"梨沙をよろしく頼むね"

また不安に飲み込まれそうになる。

「梨沙、もっと呼んで。もっと呼んだら早く戻ってくるかも。呼び戻して。お願い」

泣き続ける梨沙を抱き締めながら強く願った。



#26へつづく

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