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【連載小説】奴隷と女神 #15

いよいよ新任管理職向けメンタルケアについての社内研修日がやってきた。

参加する管理職は16名ほど。響介さんの部下でもある営業戦略部所属の係長や主任も3名いた。

開始時間5分前には全員の参加者が集まったが、響介さんの姿はなかった。ホッとしたような、残念なような複雑な気持ちだ。

「それでは時間になりましたので、新任管理職向けメンタルケア研修を開始いたします。資料は予めお配りしたパワーポイントがありますので、ご持参のPCで見ていただいても、前方のスクリーンを見ていただくでもどちらでも構いません。講義は全体で2時間半を予定しております。途中10分間の休憩を挟みます。
私、本日の研修担当をいたします総務部の松澤です。よろしくお願いいたします」

研修は部下に対して求められるメンタルヘルスの基礎知識、企業に課せられる関連する主な法律、そして会社の体制について順を追って説明する。

開始から15分たち、管理職が知っておくべきメンタルヘルスの知識や対応について説明している時、後方の扉が開いて入ってくる人がいた。

響介さんだった。

彼は自分の部下を見つけると、その隣の席に着いた。

一瞬、声が上ずる。
響介さんは隣の部下に何か声を掛けた後、真っ直ぐに私を見つめていた。

私は必死になってパワーポイントの資料のコメントを読み、少し早口になってしまい、先輩が傍らから「Calm down」とサインを送ってきた。

私は呼吸を意識し、聴講者に視線を配り、パワポのコメントを読む、を繰り返した。

そうしてどうにかこうにか前半の講義を終えた。10分の休憩の時、響介さんの方を見ると、足を組んでこちらを見て笑みを浮かべた。

私は必要以上に汗をかいていて、ハンカチで拭ってペットボトルのお茶をグビグビと飲んだ。

後半の講義は会社における体制や取り組みの話で、ここからが総務部の本領発揮となる。この説明は前半ほど戸惑うことはなかった。

講義全般が終わって質疑応答の時間になると、思いの外多くの質問が挙がった。

・上長のせいでこうなったと言われた場合どうしたらいいか
・対象者が頑なに病院に行こうとしなかったらどうするのか
・産業医にすら話したくないという場合はどうするのか
・仮に休職になった場合、上長はコンタクトを取り続けろというが、それが迷惑に思われるのではないか

…などなど。

マニュアル化したものに対しては回答が出来たが、いくつかは改めて産業医に確認するなどして回答することになった。

最後の最後で来た質問には、私にとっては少々しんどかった。

「もし労災認定しろって迫られたら、どうするんですか?」
「えぇと…その場合は労災をクリアするための条件がいくつかありますので、それに准するかどうかで認定の有無を検討することになります」
「それって時間かかるんですか?」
「それも…条件などによると思いますのではっきりとは…」
「それによって僕たち役職者が責められることもあるんですか」
「それはありません」
「言い切ってくれるんですか。僕らも複数の部下を抱えるようになったらめちゃくちゃストレスかかりそうなんですけど」
「一般職の方だけが適用されるわけではありません。みなさんも立場は同じです。より上層の管理職、経営層がそれぞれの上長となります。相談の窓口は全ての方に開かれていますから、ご安心ください」
「上に行けば行くほど大変になるよね。あなたはまだ一般層だから気楽でしょうけど」

私はちらりと響介さんの方を見た。目が合うと彼は穏やかに笑みを浮かべて小さく頷いた。

結局終了時間ギリギリまで掛かり、研修は終了した。
聴講者がはけ、響介さんも部下と一緒に既に部屋を出ていたようだった。

ふーっと、大きく息をついた。

「松澤さん、お疲れ様でした」

先輩の垣内さんが労ってくれた。

「質問、たくさん来ましたね」
「まぁ想定内ですね。松澤さん、短期間なのに準備も含めてよくやってくれました」
「ありがとうございます」

けれどきちんと聴講者の納得が行く講義になったのか、あまり自信がなかった。自分も完璧な回答が出来なかったものもあった。準備不足か、力不足か。
最後の人の「どうせあなたは一般職だから」という言葉で、やはりバカにされてると感じたからだ。

* * *

『堂々としてたじゃない』

研修を終えたその日の夜、響介さんはメッセージではなく、わざわざ電話をくれた。

「もう緊張して口から心臓が出そうでしたよ!」
『全然そんな風には見えなかったけどな』
「最後に質問した人に結構鋭いこと言われましたし」
『わざと気に障ること言う奴はどこにでもいるからね。気にしなくていいんだよ』
「私自身、準備が足りなくてしどろもどろになってしまって、人前で話す資格ないじゃないかって」

響介さんはそれに対しては強く否定した。

『誰だって限られた時間で出来る限界がある。完璧なんてものは存在しないよ。それより全うはしたよ、それは間違いなく』

そんな言葉に涙が出そうになる。思った以上に気が張っていたんだな、と思う。

「でも終わって良かったです、本当に」
『そうだね。今度打ち上げしよう。無事終えられたご褒美に、ちょっといい店にでも行こう』
「本当ですか!? 嬉しい!」

そう言って響介さんは早速翌週末、銀座にある鉄板焼フレンチの店『Ahill』に連れて行ってくれた。
この店は麻布にもあるのだが、案の定そちらはよく行くらしかった。けれどあまりにも家から近いから、と銀座店に行くことになった。

まぁ、そうだよね、当然だよね。
自分に言い聞かせる。家の近所でよく行く店に、他の女の人を連れて行く訳にはいかない。



#16へつづく

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