【連載小説】あおい みどり #20[最終話]
ふと、目を開けると、南條が私の身体を包むようにして眠っている。
真っ暗な部屋。
だけど私たちの周りだけ、淡い光を帯びている。
月明かりだろうか。いや、微かに雨の気配がする。静かに、静かに…雨の気配がする。耳で…? 鼻で…? 肌で…? どこの五感がそれを雨だと感じているのか。
でもすぐにこれは夢なんだと思う。
だって私、こんなに落ち着いているんだもの。
何故かって、これは夢だから。
だから、南條の寝顔をじっくりと眺めてみる。
すごく安らかな顔。こんなにあどけなく可愛らしい人だったのかと、改めて思う。
ただ…どうして私を抱きかかえているんだろう。
よく見れば南條はシャツを着たままだし、私の脚を挟んでいる彼の両脚、キャメル色のコーデュロイのパンツに素足。
どういうシチュエーションでこうなったんだっけ…。色々考えてみるけれど、夢だからどうでもいいやと、また寝顔を眺める。
規則正しい寝息、長くも短くもないまつ毛、微かに開いた唇…。
私はそっとその唇に指先で触れてみた。ふわりと温かく柔らかい。漏れる吐息が更に私の指先を温める。
温度まで感じるなんて、すごい夢だ。その指を自分の唇にあてる。こんな事が出来るのも全部夢、だから。
不意に南條のまぶたが震え、眉間に小さな皺が寄る。
そうしてゆっくりと、まつ毛が上がった。
とろりとした表情で、私を見る。
「翠さん…眠れませんか?」
掠れた声で私に問う。
「だってこれは、夢でしょう?」
「夢?」
南條はとろりと細めた目のまま言った。
「憶えていないんですか」
「えっ…どういうことですか…もしかして、蒼がまた何か?」
蒼、蒼…蒼が何かしていたっけ…思い出せない。
南條は眠そうな目のまま、口角を僅かに上げた。こんな甘い顔を見るのも、夢だから…だろう。
「先生、夢なら叶えて欲しいことがあります」
「…何ですか」
「キスしてください。私、この歳になって誰ともしたことがない」
南條はしばし黙ったまま私を見つめた。その瞳は困っているようでもあり、思案しているようでもあった。でも、優しい顔だった。
やがて南條の手が私の身体を這い上がり、髪を梳き、頬に触れた。
思わず目を閉じる。
しっとりと、温かいものが触れた。
そして甘い。とてつもなく、甘い。
まるで夏に先生の所で飲んだ、あのお茶みたい。甘いのに爽やかでアンバランスな、あの感じ。
私の口許にかかる吐息が熱かった。目を開けると、ほんの数センチ足らずの距離にある南條の黒い瞳に映る私が見えた。
これ、本当に夢なの?
ただぼんやりとした頭の中、霞んだ光の中にいるような気分は変わらない。
ー ね、蒼。これってどういうシチュエーションなの?
頭の中でそう尋ねても返事はない。
夢だと蒼は出て来ないの? 私だけの世界になるの?
だったら…何でも出来る。今の私なら。
「先生、好きです」
私の言葉に南條は一瞬目を大きく見開いた。
「言えないと思っていたけど、言ってはいけないと思っていたけれど、夢の中なら言える。ずっと好きでした」
そう告げると南條は暫し切なげに目を細め、やがて私の鼻の頭を指でスッと撫でた。くすぐったくて顔をしかめると、南條は淡く微笑んだ。
「先生、先生は私を傷つけたりしない?」
「…傷つける?」
「お母さんが言い続けた事が嘘なら、先生は私を傷つけないよね? 私にとって先生は初めて嫌だと思わなかった男の人。優しくしてくれた…でも…裏切らないよね…? お母さんが言ったことは嘘なんだもんね?」
「翠さん…」
掠れる南條の声。
「僕は遠くからでも、翠さんが傷つかないように見守っています」
「遠く…? そばにはいてくれないんですか?」
「…近づきすぎたら、傷つくかもしれません」
「どうしてですか」
「僕は…」
南條は言い淀み、ゆっくりとまばたきをした。美しいまばたきだと思った。
「蒼さんが僕に言ったんです。"俺たちをありのまま愛して欲しい" と」
「蒼が?」
「蒼さんは見抜いていました。僕が翠さんに好意を持っていたことを。でもそのきっかけを作ったのは、蒼さんなんです」
「え…」
南條は指先で私の額の生え際をなぞり、話し出した。
「最初に翠さんにお会いした時は、10年前のクライエントのことを思い出しました。10年経って僕は歳を重ねたけれど、彼女の時は止まったままです。同い歳のクライエントに出会う度にそれがよぎりました。翠さんにもこれまでと同様によぎったのです。
とはいえ、全ての28歳の女性に心を揺さぶられていたわけではありません。問題なくカウンセリングを進めてこられた事がほとんどです。仮に微妙な気持ちが生じようものなら、僕は積極的にスーパービジョン*という監督指導を受け、邪念を振り払って来ました。翠さんの件でも、実はスーパービジョンを受けていました。
ただ翠さんは…あなたには "蒼さん" がいました。
蒼さんはこれまでの方で最も激しく僕にぶつかって来ました。剥き出しの気持ちを、それこそ痛々しいほど僕にぶつけて来た。僕が10年間抑え込んできた感情を、彼は火球のようにぶつけて来たのです。診察室で僕を押し倒し、駐輪場で待ち伏せしては僕を抱き締めた…。
僕は蒼さんが羨ましかった。僕にはもう、こんな風に気持をぶつけられる人なんていないと思っていた。40を過ぎて、僕も心にひずみを抱えていたのかもしれません。
そんな蒼さんと、想いをひた隠しにして諦めようとした翠さん。人格が別なら想い方も別。相反しているのに、僕の中ではどこか重なりぼやけていく…。そう、僕が好きなピーコックブルー… まさに2人は “あおみどり” なんですよ。僕は次第に2つの心を持つ一つの身体を、真っ直ぐに突き立ててくるベクトルを…愛しく思い始めていた。流れに委ねられたら、どんなに刺激的でありながら心地良いだろうか、と。だから離れることを試みたんです。
もちろん、契約を解消すれば何でもいいわけではありません。本来はもっと長い時間空ける必要があります。ですが翠さん、そして蒼さん、2人は僕を…愛なんて消してしまっていた僕を…掻き立てた」
南條は私の髪を再び手で梳き、瞳を覗き込んだ。吸い込まれそうで怖くなる。
「先生…」
「熱に突き動かされたんですよ。僕も歳を取ったのです。それなのに仙人のように達観することは出来なかった。僕を叱責した大学時代の恩師が今の僕を見たら、確実に落第点をつけるだろうな」
そうしてフフっと笑ったかと思うと
「ピーコックブルーは、昔から好きな色なんです」
唐突なその言葉に思わず「えっ?」と訊き返す。
「今の自転車は一目惚れして買ったんです。海の色でもあり山の色でもある。曖昧で、だから美しい」
「曖昧…?」
「緑でもあり青でもある。でも、どちらでもない。僕はそんな曖昧を、ありのままに愛し、抱き締めたいと思った」
そして南條は親指で私の頬をなぞりながら囁く様な甘い声で言った。
「ずっと、あなたたちを見守っています」
南條は泣きそうな顔をしたかと思うと、黙って私に、再び口づけをした。
***
瞼の裏に光を感じ、目を開けた。
いつから、どれくらい時間が経ったのか。朝なのか、昼なのか。一瞬混乱するが、白い光の強さは、既に陽が高いことを意味している。
いつもの自分の部屋の、ベッドの上だった。
私の他には、誰もいない。
南條が私の額に触れ、頬に触れ、唇に触れた。
夢…夢…でも私のここに、触れた。確かに。
ふと見ると枕元にピーコックブルーの "A" のイニシャルのハンカチ。
「先生。南條先生」
上半身を起こして呼んでみるけれど、静まり返った部屋。
「ね、蒼。先生はここにいたの? 見てたでしょ?」
返事はない。
「蒼、ねぇ蒼ってば」
耳を澄ませても、どこからかほんの微かに鼻歌のような声が聞こえるだけ。
窓が開いており、カーテンが小さく揺れている。
プリズムのように光が部屋に差し込む。
湿った枯草の匂いが流れ込んでくる。
END
【ひとこと】
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この後は番外編が2本、続きます。
もうしばらくお付き合いくださると嬉しいです。
【用語解説】
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