【連載小説】奴隷と女神 #14
「松澤さん、ちょっと」
上司の山田課長に、手招き付きで呼ばれた。何だろうと不安に思いながらメモを手に課長の席へ向かう。
「はい、何でしょうか」
「松澤さんにお願いしたいことがあって」
それは11月上旬に予定している、主に新任管理職向けの社内勉強会の講師の依頼だった。
テーマはメンタルヘルスマネジメント。
「出来ればなんだけど…メンタルヘルスマネジメント検定試験があるから、II級でいいから受かってもらえるとハクが付くんだけどね」
「ちょっと待ってください。管理職向けですよね? 私なんてまだペーペーなんですよ? そもそもハクなんて付きません」
「松澤さんはもう若手じゃないんだよ。こういう経験もどんどん積んでいかないと」
ピシャリと言われた。
「そもそもこの手の研修は人事部管轄なんだが、ちょっと人手が足りないらしくてヘルプ依頼が来たんだ。松澤さんは総務に来たばかりだからこそ、柔軟に対応が出来るといいなと思ったんだよ。研修開催まではサポートがちゃんと付くから」
「…わかりました」
開催日時と概要、資料のボリューム感などを聞き、内部レビューやリハーサルに向けて約1ヶ月で取り掛かることになった。
社内ではメンタルケアの相談は人事部が管轄しているけれど、産業医との窓口は総務部になるため、社内の相談の流れや手続き的なことなど、確かに背景も知っておくに越したことはない内容ではあった。
メンタルヘルスマネジメント検定試験について調べると年に2回しか開催されていないため、試験には間に合うが取得には間に合わなかった。
けれど今からでも受けられるセミナーに参加したり、関連する書籍を一部は会社、一部は自腹で購入するなど、にわかに慌ただしくなった。
ましてや管理職を相手に人前に立って偉そうに(かどうかはわからないけれど)登壇するなんて、プレッシャー以外何者でもなかった。
* * *
響介さんとのデートに日に早速不安を吐露した。
「へぇ、いいじゃない。そういう機会って大事じゃない?」
「もう、響介さんも課長と同じこと言う!」
その日は表参道にあるレストラン『CICADA』に来ていた。
地中海料理をうたっており、店内にはテラスやプールまである、リゾート気分を味わえる人気のレストランだった。
そこで私たちはお庭やプールを眺められるカウンター席に並んで座った。
チーズやプロシュート、フルーツの載ったタパスやラムのタジン鍋、シーフードに真鯛のローズマリーローストを頼み、ワインを楽しんでいた。
「だって別に偉そうに教えをこうむるわけじゃなくて、会社の仕組みの説明とちょっとした心構えを話せばいい感じなんでしょ?」
「そうですけど…響介さんは営業系なんだからプレゼンテーションの機会もこれまでたくさんあったと思いますからそんなこと言えるんです。私、そういう経験、ほとんどないんですよ?」
「だから積むしかないじゃないか」
最もなことを言われて黙る。すると響介さんは左手で私の頬をつついた。
「小桃李ならきっと成功するよ」
「…楽観的なご意見ありがとうございます…」
彼はニヤニヤと笑ってワインを傾ける。
シーフードを頼んだから、ラム肉でも耐えられるパンチの利いた白ワインだ。
「実は僕、持ってるよ。メンタルヘルス・マネジメントのⅠ級」
「えっ、本当ですか? 教えてください! 私、Ⅱ級受けるつもりなんです」
彼は困ったように笑って言った。
「教えられないよ。今はいい参考書があるから、それでちょっと勉強すればⅡ級は問題なく取れるって」
「え~、意地悪!」
「意地悪じゃなくて、Ⅰ級とⅡ級は内容の差がすごく開いているし…。僕も1回試験に落ちて、2回目でやっと受かったんだよ」
「私、Ⅱ級ですら自信ないです…」
「でも試験に合格するのが目的じゃないでしょ? あくまでも今度の研修のために必要な知識の一部で、その結果資格が取れればラッキーだなって感じなんでしょ?」
「まぁ…そうですど…」
私はタジンのラム肉にかぶり付いた。響介さんはそれを見ておかしそうに笑っている。
「その研修、僕も参加していいの?」
「えっ!? だっ、だめですよ!」
「どうして? 」
「だっ、だって、新任の管理職の方向けですし、主任や係長クラスの方がメインの対象です。課長職以上の方はもう知ってて当然の内容なので」
「"任意" で参加は可能なんでしょ?」
「…ん、ま、まぁ、可能だと思いますけど…でも逆にそんなところに部長クラスの方が参加されたら浮きますよ! 周りもプレッシャーかかりますし」
「いいじゃない。むしろプレッシャー掛かった方がいいだろう? 受講者がきちんと受けているかチェックする意味でも。うちの部も何人か対象がいるはずだからな。場が引き締まるかもよ」
「そんな…」
響介さんが聞きに来るなんて、尚更やりづらい。けれど。
「僕が聞くからには、気合の入ったものが出来るんじゃないかね」
彼はそう言っていたずら気に笑った。
#15へつづく
【紹介したお店:COCADA】