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汝はなぜスッポンスッポンになるのか

(13)月子さんとノブちゃんへ

  次の日から二人で毎日、一緒に行動するようになりました。朝方は自転車に乗り、あっちや、こっちの村に出かけ、幻のワインを探します。月子さんとノブちゃんが聞いたことも、飲んだこともないワイン、二人が驚くようなワインを探し回るのです。トーマスもワインが好きらしく、探すのを手伝ってくれます。この島はドイツ人観光客で溢れているため、ドイツ語がほとんどの店で通じます。店に入りトーマスがこの近辺にワイン専門店を知らないかと聞いてくれます。いざ、そのような店が見つかると、マヨルカ島産の美味しいワインはないかと尋ねてくれます。

 昼ごろになると暑くなるのでビーチに繰り出します。例のヌーディストビーチに行くのです。そこでスッポンポンになり、海とビーチと太陽を楽しむわけです。いや、人生を謳歌するのです。そうです――「Life's a beach!」

 人間の慣れとは実に恐ろしいものです。昨日はヌーディストビーチに仰天しました。今日はすでに慣れっこになり、まったく平気というわけです。他人からゲイカップルと見られようが知ったことではない。大きなお世話です。不思議とこれまでの自分とは異なり、他人の視線が気にならなくなりました。それがすごく居心地がいいのです。

 大人というか、誰もまったく干渉しない、勝手にどうぞ、自由にやってくださいという雰囲気が充満しています。スッポンポンになり、全ての虚飾を脱ぎ捨て、身も心も裸になり、頭の中を空っぽにして、ぼんやりと海を眺める。引いては寄せる単調で美しい波の音を聞きながら、浜辺を歩き去る人々を見ているだけ。それなのにまったく飽きない。こんなに自由で、リラックスした気分になったのは何年、いや何十年ぶりでしょうか。

 


思い起こせばつい数ヵ月前まで紺のスーツを毎日着て、革靴をはき、ノートPCを入れたカバンを持ち歩き、毎朝満員電車に揺られ、スマホで会社関連のメールをチェックし、エクセルのプレゼン資料と睨めっこをし、名刺交換し、朝礼、会議、飲み会、接待、上司の悪口、昇進の噂などと慌ただしく日々が過ぎていき、「今年もあっという間でしたね」と、ため息を漏らしていました。

 それにしても東京のサラリーマンの生活のあとに待っていたのは、ヌーディストビーチとは!

天国と地獄ほどの雲泥の差があります。

 これはホステルで検索してわかったことですが、スペインのすべてのビーチにヌーディストビーチがあるわけではないそうです。楽園はそう多くはないということですね。戦前からスペインを支配していたフランコ将軍の独裁政権下では、ヌーディストビーチは全面的に禁止されていたとか。

 

カゴメもビーチを愉しんでいる

 今日、マヨルカ島でも一部でしかこの手の解放されたビーチは許されていないそうです。それでもこの島は世界有数のヌーディストビーチ天国だとか。公認されているからこそ、ワイセツ物陳列罪で逮捕されないのです。考えてみれば、スペインはカトリックの国、必ず教会があります。いくらビーチとはいえ、スッポンポンになっていたら逮捕されて当たり前でしょう。

 ちなみにスッポンポンの方々を「ヌーディスト」(nudist)とは言わず、「ナチュラリスト」(naturalist)と呼ぶそうです。すなわち、神が意図された自然のままの姿を愛する人々のことです。同じくバルセロナ沖の地中海に浮かぶイビサ島がヨーロッパのクラブ音楽のメッカなら、マヨルカ島はガウディ、ミロ、ショパン、そしてヌーディストビーチが地元の名産物らしいです。

 定かではありませんが、どうやらこの「ナチュラリスト」の運動は戦前からあったようで、それが盛んになったのは1960年代だとか。60年代後半から女性は解放され始め、解放の証拠がブラジャーをはずすことだったようです。実は日本でも60年代に「ノーブラ」が流行したことがあります。もちろん、それはビーチにおいてではなく、夏、Tシャツなどを着ているとき、ブラジャーをしないことが「カッコいい」スタイルだったようです。
 
 そのため一時日本では異変が起こり、ブラジャーの売り上げが激減したとか(当時、もうひとつ流行ったのが「未婚の母」。未婚のまま子供を産むことが流行したのです。いまで言うところのシングルマザーが流行したのです)。「ノーブラ」や「未婚の母」が流行したにもかかわらず、日本女性はビーチでノーブラになり、ヨーロッパ的解放を実践することはなく、日本にはヌーディストビーチが誕生することはなかったようです。

 しかし、自分の脳裏から離れなかったのは、どうしてビーチでスッポンポンになる必要があるのかということです。どうせ男ならパンツ一丁、女ならビキニか、トップレスなのだから、わざわざ裸になる必要があるのかということです。この楽園の新参者である自分の脳裏からは、この単純な疑問が消えませんでした。トーマスに聞いてみても、「I don't know」と笑うだけです。

 この疑問をスッポンポンの方に直接ぶつけてみたくなりました。

「リラックスされている最中大変失礼ですが、どうしてもお聞きしたいことがあります。なぜ、セニョリータはスッポンポンになられるのですか? わざわざ遠いハポン(日本)からやってきましたので、是非とも教えていただきたいのですが……」

 でも、躊躇しました。このビーチには、日本人は自分一人だけのようです。それどころかアジア人は自分だけらしいのです。自分はアジア代表選手です。当然、周囲の注目を浴びるでしょう。相手がスッポンポンなら、当然、自分だけがパンツをはいているのは、人類解放運動に対する非礼な裏切り行為でしょう。やはり自然児のままでインタビューをするしかないでしょう。そこにはサイズや色などの諸問題もあるはずです。それにそんな質問をして、外交問題にまで発展したらどうしましょう。日本・スペイン友好親善を害するような失礼な行為かもしれません。それにEU諸国に属さない男でも裸になれるのでしょうか。わいせつ物陳列罪で逮捕されないのでしょうか。逮捕され、それが新聞に載ったら、二度と日本に戻れなくなるかもしれません。

 そんなことを考え巡らせながら、ヌーディストたちを眺めていると、ある男の胸に刻まれた漢字のタトゥーに目が奪われました。タトゥーは「愛」、「友情」、そしてなんとその隣に「温泉」と書いてあるではありませんか。

 愛と友情はわかるような気がします。でも、なぜ、温泉なのでしょうか。本人はこの漢字の意味を理解しているのでしょうか。しゃれか、冗談か。やはり愛と友情の次に大事なのは、温泉というわけなのでしょうか。体に「温泉」と刺青までするのですから、かなりの温泉ファンなのかもしれません。

 いずれにしろ、彼のおかげで一瞬閃きました。その「温泉」という2文字で謎が解けたような気がしました。ヌーディストビーチだろうが、トップレスだろうが、日本的に言えばここは混浴の露天風呂なのではないでしょうか。日本では露天風呂があり、ヨーロッパにはヌーディストビーチがあるのでしょう。

 


人は裸になりたいのです。ビーチでもお風呂でも。

この世の東西を問わず、男も女もやはり裸になりたい欲求があるに違いありません。服を脱ぎ捨て、仕事のことや面倒なことをすべて忘れ裸の自分に戻る。裸であれば肩書も年収も出身大学も関係ないのです。それらから解放され、自由になれる。一人の人間に戻れるのです。それが快感、その快感を得るために人は裸になるに違いないのです。

 ……と、自分は裸について哲学的な考察にふけってみましたが、要するにこの開放感にぞっこんになったということです。海岸でトーマスと一緒にスッポンポンになっていると、本当の自分でいられるような気がしてならないのです。大人より裸の赤ちゃんのほうが幸せだとよく言いますよね。赤ちゃんは自分に正直で、何のコンプレックスもありません。だから大人より幸せだ、と。自分も身も心も裸になりたいです。もう演じることに疲れましたから。心底疲れました。自分が好きな人のことを「好きだ」と、大声で言いたいです。

 また、メールします。
(続く)

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