刺す 刺される 剥き出しの心に
「リリィ・シュシュのすべて」について。
まずは、これを見てほしい。
…見た?
これが私の「リリィ・シュシュのすべて」との出会いだ。
当時、中学生を終えんとしている私。(もしかしたら、高校生になりたての私。)インターネットでは爆裂に『ニコニコ動画』が流行っていた。今、若人にとって動画サイトといえば『YouTube』で、ニコニコ動画なんて知らないだなんて、あの時は想像もつかなかったほどに。いや、盛者必衰すぎるでしょ。震える。
そのニコニコ動画で、これを見た。知っているボーカロイドの曲と、知っているアニメのために作られたラップのマッシュアップ。
ただ映像だけが、知らなくて、
強烈で、
鮮烈だった。
曲との調和も相まって、どうにも目に焼き付いて離れない。何度も、何度も見た。
流れてきたコメントで、その正体を知る。
「リリィ・シュシュのすべて」
「リリィ・シュシュのすべて」は岩井俊二監督・脚本の邦画であり、岩井俊二により掲示板を用いて実験的に書かれたインターネット小説。
今日、私は後者を書籍化したものを読み終えた。
映画は、まだ見ていない。
いやお前、最初に映像に衝撃受けたん違うんかい。本は読んで、映画まだて。
まったく、その通りだと思う。でも、正直にいう。
まだ見ていない。
いずれ見る。
というのも、「リリィ・シュシュのすべて」と再開を果たしたのは最近の話だ。コロナウイルス感染防止のため、普段教室として使う場所では無いところが、私のクラスの教室になり、そこには本棚があった。給食後は教室で生徒を見ている。どうも手持ち無沙汰に感じて、特にあてもなく、本の背をなぞっていく。そこにそれはあった。
あ、これ、本あったんだ。
タイトルの文字に、動画の記憶が蘇る。
中学生の時の私は何度も動画を見た。しかし、映画は見なかった。映像の示す、純度の高い鬱屈と、若い体に隠された慟哭のような何かに、耐えられる自信が無かったのだ。そのままそれらに染まってしまいそうな危うさもあったし、染まってしまったらなんかやべぇかもという漠然とした不安と、わけのわからない恥ずかしさもあった。
なにより
中学生の私は死にたいと思ったことがなかった。
嫌なことはそれなりにあり、悩むこともある。いじめられたことだってなかったわけじゃない。ただ本作の扱っている、行き過ぎたいじめ(…いじめは程度の差はあれ全て行き過ぎているからいじめなのだけれど)や、思春期の子どもの心の、言葉にしようもないぐちゃぐちゃした何か。それを、その切れ味を、知らずに育ってしまった。「私がいるのは、これに比べたら温室だ。本当の意味で理解することはできないんだ。」と悟ってしまったのだ。
だから、あの時は見られなかった。
そんな思い出があっただけに、今ならどうか。俄然、興味が湧く。振り返ってみれば、
高校生の私も死にたいと思ったことがなかった。
大学生の私も死にたいと思ったことがなかった。
そして今も、死にたいと思ったことはない。
でも、わかりたい。その気持ちは中学生の私より強化されていて、理解することはできなくても、ただ知りたいと思った。そして、その日のうちに書籍を注文した。(そして通勤と自宅の時間で、2日で読み終えた。)
小説版は、ネットの掲示板を利用して書かれたもので、本になっても横文字のままなのが特徴的だ。掲示板に書き込んだことはなくても、雰囲気や使い方を知っているせいか、読みやすかった。最初は、リリィ・シュシュという歌手のカリスマ的魅力に取り憑かれたファンたちの厨二病的な、時折オタク的な、私より1世代前くらいのインターネットの独特のやりとりに、むず痒い気持ちになりながらページをめくる。そのうち、やりとりを通じて、ある事件に関して紐解かれていき、いつのまにか没入している。「青春」ではない「思春期」の剥き出しの心に残された生々しい傷。どう考えても、乾いた傷ではなくて、生傷。鬱屈しているのに切れ味は鋭く、やはり、強烈で、鮮烈だ。後味が良い話ではないのに、読後感はなぜだかさっぱりしている。それがまさに、少年が、少女が、傷つき、傷つけられ、例え命を断つことがあろうと、人の命を奪うことがあろうと、空は晴れやかに青く、澄み渡っている様子が伝わってきてしまう。あまりにも無情だ。その無情ささえもこの歳になると、当たり前のこととして受け入れてしまう。もし中学生の時に読んでいたら、もっと剥き出しの心に刺さっていたのかもしれない。無情が。
それでも今また出会って、読んで良かった。
映画も見る。