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ブラヨシミの街歩き歴史探訪【なぜ新宿で陸軍とヤクザと革命家は同居していたのか?】

昨年のカルチュラル・タイフーン2023@早稲田大学🏳️‍⚧️特別企画🏳️‍⚧️として配信された、ブラタモリならぬ『ブラヨシミ』(出演者:吉見俊哉)は素晴らしく面白かった。カルチュラル・タイフーン2023の会場となった新宿・早稲田を、吉見俊哉さんがブラブラあるきながら歴史の痕跡を探すというもの。

以下は視聴メモ。江戸時代、尾張藩の上屋敷(政務)、下屋敷(レクリエーション、大奥の女性たちが主役の茶会)。箱根山はパーティーをするために作られた人工の山(築山(つきやま))、当時は江戸では最も高い山だった。

【なぜ新宿で陸軍(尾張藩の下屋敷の大名屋敷)とヤクザと革命家は同居していたのか?】

(1)【陸軍/大名屋敷】尾張藩の下屋敷の大名屋敷が明治維新で新政府に接収されて、陸軍戸山学校が作られた。池は埋めたてられて軍事演習場に。築山は使い道がないので残された。陸軍の用地になんで教会があるの?つまり戦後出来た。戦後GHQが陸軍戸山学校を接収して、米軍兵士たちのために作られた教会。教会の下の部分は戦前からあった、陸軍の将校たちのサロン、集会場として使われていた。その上にアメリカ軍は教会を建てた。軍の記憶と占領期の記憶が層をなして読み取れる。

箱根山という高台近くの公園内にある戸山教会。
石造りの部分がかつての将校集会所。

以下の都市探検家・黒沢永紀さんの解説記事も参考になる。

(2)【やくざ/吉見俊哉のファミリーヒストリー】東大久保にある西向天神社⛩。歌舞伎町の真裏にある。曽祖父の娘たち。吉見俊哉の曽祖父、山田興松(おきまつ)は水中花を作って売って歩いてた。曽祖父は造花の本を書いてる(『実用造花術指南』博文館、1904年)。曽祖父は明治時代の造花術の権威だった。日本美術女学校という造花の学校(生徒30人)の校長先生をやってた。曽祖父、山田興松の娘の山田チエ(吉見俊哉の祖母の八重さんの妹)が安藤家に嫁いで安藤チエになった、そして産まれた息子が安藤昇。安藤組の安藤昇。安藤昇の自伝には、自分の祖父の山田興松は西向天神社の裏の研究所で水中花を発明したと書いてある。

西向天神社
1999年に「新宿の女」の歌碑が、西向天神社拝殿横の境内に建立されている。石坂まさをの作詞作曲生活30周年を記念して建立されたもの。

 歌碑の背面には建立の由来として「昭和44年(1969)9月25日『新宿の女』でこの西向天神社より2人の若者が旅立って行き、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み伝説として語られるようになった。心生舎」と記され、建立者120人の氏名が記されている。


石原慎太郎などの本は挙げたくなかったが、一応こういう本も出ているということで。

(3)【革命家/女性運動家】東京監獄(290名余りの人が刑死している、すなわち処刑されている。幸徳秋水らを含む)、市ヶ谷刑務所。まさにパノプティコン(一望監獄施設)。百人町の隣の柏木(かしわぎ)には、堺利彦や荒畑寒村らが住んでいて柏木団と呼ばれていた。柏木で堺利彦の妻のため子や、幸徳秋水の妻の幸徳千代子などが、社会主義婦人同盟会を結成していた。社会主義婦人同盟会は戸山ヶ原で園遊会をやっていた。大逆事件で12名が処刑されているが、その中で唯一の女性が管野スガ(子)。管野スガはもともと女性の記者で廃娼論などを発表していて、女性ジャーナリストの先駆けと言われている。管野スガはもともとは荒畑寒村の妻だったが、大逆事件の前年には幸徳秋水と生活を共にしている。1910年は大逆事件と「韓国併合」。帝国は台湾の台北や韓国に監獄を輸出している。帝国は同時に監獄国家である。1964年に弁護士が働きかけて作られたのが刑死者慰霊塔(絞首台の跡地)。1903〜1922東京監獄⇨東京監獄が市ヶ谷刑務所に改称されて1930年代に完全に移転。刑死者慰霊塔の除幕式には荒畑寒村が出席している。1932年に昭和天皇の暗殺を図った(俗に桜田門事件と呼ばれている)朝鮮人労働者・抗日運動家、李奉昌(イ・ポンチャン)が処刑された場所でもある。

東京監獄(市ヶ谷刑務所)跡地の一部になっている余丁町児童遊園に建つ「刑死者慰霊塔」(日本弁護士連合会が建立)。
この慰霊塔の建っている場所が処刑場だったと言われている。

2013年の院内集会「102年後に大逆事件を問う」

「散歩の変人」さんのブログ記事「市ヶ谷刑場跡・正春寺」も参考になるので載せておきます。

「先日、都内の大逆事件関係の物件を二つ廻ってきたので紹介します。
まずは事件の犠牲者十二人が処刑された市ヶ谷刑場跡です。都営新宿線曙橋駅でおり、住吉町交差点から台町坂を新宿方面へ十分ほどのぼると、左手に余丁町児童遊園があります。この公園の奥に富久町児童遊園という小さな公園がつながっています(新宿区余丁町4)。このあたりが刑場跡で、かたすみに「刑死者慰霊塔」があります。建てたのは日本弁護士連合会で(1964.7.15)、ここで殺された290余名の慰霊とともに、大逆事件再審請求を応援する意味が含まれているそうです。ブロックで頑丈な囲いが作ってある、かなり大きな石碑でした。“大逆事件”とおおっぴらに刻めない「空気」があったのかもしれません。「ここで殺されたのか…」 五月とは思えない灼熱の陽光の下、公園に佇んでいると立ち眩みを覚えました。国家権力に抗う者は殺す…

都営地下鉄十二号線都庁前駅から代々木方面に十分ほど歩くと、管野スガの墓がある正春寺です(渋谷区代々木3丁目)。本堂の裏手に小さな墓地があり、その中央にかつて墓標がありそれが朽ちたので記念碑が建てられたようです。前面には「くろかねの窓にさしいる日の影の移るを守りけふも暮しぬ 幽月女史獄中作」という彼女の歌が刻んであります。背面には「革命の先( )者 ( )管野スガここにねむる 1971年7月11日 大逆事件の真実を明らかにする会 これを建てる」という一文。碑にしずかに触れると、彼女の無念の思いが伝わってくるようです。国家権力に抗う者は殺される…」

韓国・ソウルにある李奉昌義士像

参考資料①:吉見俊哉『敗者としての東京――巨大都市の隠れた地層を読む』

目次より
東京とは何か―勝者と敗者のあいだ
第1部 多島海としての江戸―遠景(クレオール的在地秩序;死者の江戸、そして荘厳化する外縁)
第2部 薩長の占領と敗者たち―中景(彰義隊の怨念とメモリー・ランドスケープ;博徒と流民―周縁で蠢く敗者たち;占領軍と貧民窟の不穏―流民の近代をめぐる眼差し;女工たちは語ることができるか)
第3部 最後の占領とファミリーヒストリー―近景(ニューヨーク、ソウル、東京・銀座―母の軌跡;学生ヤクザと戦後闇市―安藤昇と戦後東京;「造花」の女学校と水中花の謎―山田興松とアメリカ進出;原風景の向こう側―「都市のドラマトゥルギー」再考)
敗者としての東京とは何か―ポストコロニアル的思考

参考資料②:柳瀬博一「長期停滞にあえぐ日本に勇気を与える、江戸=東京の「敗者」論 吉見俊哉『敗者としての東京――巨大都市の隠れた地層を読む』書評」

参考資料③:速水健朗さんによるブックレビュー

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