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山田洋次監督の映画『家族』『故郷』鑑賞記

山田洋次監督の映画『家族』『故郷』を観た。

『家族』(1970年)は高度経済成長期、石炭から石油へという国のエネルギー政策の転換の中で、主人公の働く長崎の炭鉱が閉山したために、酪農家への転身を決意し、はるばる新天地を求めて北海道の開拓村に向かって、老父と小さい子供2人を含めた一家5人が総出で村を離れ、日本列島縦断の長旅をする(その道程で様々な出来事に遭遇する)、スケールの大きなロードムービーだった。長崎の小島から博多、福山、万博開催中の大阪、東京、東北の寒村を経て北海道の開拓村に辿り着くまでの道中のそれぞれの都市の様子が鮮やかに映像に映し出されていて、一種の記録映画としても楽しめた。泣けてきたのは、途中で、年老いた父の扶養を頼みに、福山市に澄むサラリーマンの次男夫婦をたずねるシーンである。当時の最先端の裕福な生活をしていると思ったサラリーマンの暮らしも決して楽ではなく、団地住まいで預かる余裕もなく、「何で兄さんたちは何の相談もなく家に来たんかね」と言い放つ。しかし厳しい言葉とは裏腹に、駅のホームに兄夫婦家族と老父を見送って帰る途上の軽自動車の中で「親父のことを思うけれども、どうしようもない」と涙をふく次男の姿があった。その車の周りには、満杯の工事資材を積んだトラックが噴煙をあげて爆走し、背後には、巨大な煙突から黒煙を吐くコンビナートが広がっている。1970年前後の日本社会の工業化の時代を映した一場面だった。高度成長という名の社会の大きな動きの中で、人間の絆が引き裂かれることの痛ましさがよく描かれていると思う。高度成長についての記録としては、斉藤茂男『わが亡き後に洪水よきたれ』なども参考になる。

『家族』から2年後に公開された『故郷』(1972年)は、石船の仕事をしてきた夫婦が、工業開発の波に追われて、ついに廃業に追い込まれ、故郷の島を離れて、尾道の工場の労働者になることを決断するまでの葛藤の物語である。高度経済成長によってもたらされた農村や地方の変化(過疎化現象など)、そして産業構造の変化によって生み出される失業者の存在を、一家族に焦点を当てながらうまく描いていて、大きな時代の流れ・変遷を感じるとともに、その中で個人の意思とは関係なく、否応なしに生活基盤・生活形態を変化せざるを得なかった地方の状況が描かれている。井川比佐志演じる船頭はこう叫ぶ、「大きなものって、なんだろうの。時代の流れって、なんだろうの」と。この映画の倉橋島と尾道の関係はちょうど、新藤兼人監督『裸の島』における宿禰島と尾道の関係を連想・想起させた。加藤登紀子の唄う主題歌「風の舟唄」がまた、失われゆくものへの郷愁を誘う。井川比佐志と倍賞千恵子のコンビも息が合っていて良かった。


番匠健一さんの論文「入植と離散と文学サークル運動 ―境界地域としての北海道東部と玉井裕志と山田洋次の出会い」も読んでみたい。

満州引揚者である山田洋次が『家族』『遙かなる山の呼び声』などで道東(根釧(こんせん)原野開拓地)を舞台にしていることは、山田の引き揚げ体験の言語化か。それは映画の寅さんが「故郷を持たない」のと似て、故郷を持たない山田の心のありようでもある。
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引揚げ者としての経験の言語化
・山田洋次は、引揚げ者として植民地経験を積極的に発言をしていることでも知られています。 2006年11月27日に開催されたシンポジウム「引揚六〇 周年記念の集い~いま後世に語り継ぐこと~」(九段会館 大ホール)においても、なかにし礼(作詞家・作家)や 高野悦子(岩波ホール支配人)などと共に登壇していま す。
・「私の妻は山陰生まれである。私自身は満州半分、日 本半分という無国籍風な育ち方をしていて故郷とい うものを持たないためか、故郷のある人に対しては 幼いころから強い羨望、ないし、あこがれをいだく のが常であった。」「地方訛り」『新潟日報』1972 年 4 月 4 日、(山田洋次『映画館がはねて』中公文庫、1989 年、101 頁)
・故郷がない、あるいは育った場所と切り離された故郷喪失者であるという感覚は、北海道に入植した人々、あるいは入植した後に離散せざるを得なかった人々とも響きあう感覚なのかもしれません。

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