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原発・核兵器、被爆者・被曝者関連のニュース記事(随時更新)
・「『核開発地域に生きるーー下北半島からの問いかけ』(同時代社、2024年12月25日刊)
宇部近郷のみなさんへ
この本の学習会をちょぼちょぼと行う予定です。参加してもいいよ、という人はメッセンジャーで連絡ください。「研究者の論文だから、どうせ後知恵の、ミネルバのフクロウで実践的には役にたたんと思うがねぇ」という人には、「日暮れてやってくる知恵のある人に話をじっくり聞いて、まあ、明日の朝から役立てていけばいいのではないの」とさしあたり答えておきます。私の個人的な感想でいえば、研究論文を読んで涙ぐむなどということは初めての経験でした。」(安藤公門さんFB投稿2025/2/15)
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・「屍のウジ虫を米粒と思い…」固く口止めされた長崎での被爆体験を詩に 韓国の82歳詩人
2025/2/13(木) 西日本新聞
韓国の詩人で、長崎で被爆した金光子(キムクァンジャ)さん(82)=釜山市=が昨年末、原爆を主題にした詩「長崎、長崎の曼荼羅(まんだら)よ-浦上慰霊曲」を発表した。被爆体験は亡き夫にも明かさず隠し続け、原爆を扱った詩作は初めて。詩は翻訳され、金さんの代表作と一緒に今夏、日本でも出版される予定だ。
【写真】原爆で破壊された長崎の浦上天主堂と落下した約50トンの鐘楼ドーム
野辺へと漂う焼けた屍(しかばね)の腐敗臭が 鼻をつき それはすさまじい臭いで鼻をひん曲げた あの腐敗した屍の色は まるで朝鮮の醤油(しょうゆ)のようだった
空腹の三歳の子の泣き声 真っ黒く焼け焦げた屍のウジ虫を 白い米粒だと思い 「まんまをちょうだい」と 指をさし 屍の上に座って駄々をこねる子ども(翻訳家・五十嵐真希さん訳)
爆心地に近い長崎市稲佐町で2歳(詩中の3歳は数え年)の時に被爆。全身をやけどし、爆風で飛んできたガラスが右尻に刺さった。血と黄色いうみの汁が止まらなかった。父の腹は裂かれ、母も両脚が大きくねじ曲がる大けがを負ったが、3人の命は助かった。
混乱の中で家族は韓国に戻ったが、幼少期から、尻の治療を受ける時などに両親が何百回と当時の状況を繰り返し、伝えた。詩はその記憶から紡ぎ出した。
差別や偏見で結婚できなくなることなどを恐れ、両親は娘に被爆体験を外で話さないよう固く口止めした。金さんも尻の傷を気にし、風呂場などを避けるようになった。
父は1976年、夫は86年、母は99年に亡くなった。夫は被爆の過去を知らなかった。2023年5月、先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)の際に来日し、長崎市の長崎原爆資料館に残っていた、母の証言映像を初めて目にした。「自分も世界に発信しなければ」との思いが強まり、西日本新聞も同年8月、金さんの思いを報道した。
24年8月、在韓被爆者のインタビューを続ける長崎大の森川裕二教授からも詩作を後押しされ「曼荼羅よ」を書き始めた。金さんは「天にも隠してきた秘密を詩で吐き出した」と言う。
韓国内で優れた詩人に贈られる「尹東柱(ユンドンジュ)文学賞」を受賞したこともある金さん。「曼荼羅よ」は15冊目の詩集「詩軸日記」に収録され、昨年末に韓国で出版された。今後も、被爆の詩を書き続けていこうと考えている。 (釜山・平山成美)
感性に訴えかける意義 長崎大の森川裕二教授(国際政治学)の話
戦争体験者が不在の時代を控え、個人の記録や証言を平和教育へどう結びつけるかという課題に直面している今、詩はその隙間で感性に訴えかけてくれる。韓国では広島の被爆体験が語られることが多く、長崎の体験談は大変貴重だ。
・核被害による長期避難の実相〜チェルノブイリとマーシャル諸島に学ぶ〜(2016年、関西学院大学災害復興制度研究所)
・東京新聞デジタル社会面「放射能汚染された食品がフリマサイトで「野放し」…突き止めた阿部浩美さん 体が不自由になっても測定を続ける」2025年1月26日
市民測定室NPO法人みんなのデータサイト福島ラボに通い続ける福島市の阿部浩美さん(54)を取材した記事が大きく掲載。
みんなのデータサイトでは、活動を支えてくださる賛助会員を募集しています(3,000円/年)。非常に厳しい財政面をお支えください。どうぞよろしくお願いします。賛助会員はこちらから:
・東京新聞デジタル:「珠洲原発を止めて『本当によかった』 無言電話や不買運動に耐えた阻止活動28年の感慨」2024年1月23日
能登半島地震の震源地近くに建設が計画されていた「珠洲(すず)原発」。建設予定地だった石川県珠洲市高屋町は、今回の地震で住宅の大半が壊れ、陸路も海路も閉ざされて孤立状態に陥った。もし原発が実現していたら、重大事故が起きて住民の避難がより困難になった可能性もあった。
建設を阻止したのは、住民らの長年にわたる根強い反対運動だった。どのような思いで止めたのか。(岸本拓也)
◆あと1年続いてたら僕らがつぶれていた
「どこで何があるか分からん。本当に珠洲原発を止めて良かった」
今回の地震で被災した高屋地区にある円龍寺の住職・塚本真如さん(78)は今月中旬、同県加賀市にある2次避難先のホテルで「こちら特報部」の取材にほっとした様子で語った。
珠洲原発計画の反対運動で中心的な存在だった塚本さん。1975年に持ち上がった計画は、住民の反対運動と、それを切り崩す電力会社側との28年に及ぶ「闘争」の末、2003年12月に凍結された。塚本さんは「あと1年粘られたら、つぶれとったのは僕らの方やった」とかつての日々を振り返る。
◆関電は飲食や視察旅行で懐柔を図る
関西、中部、北陸の3電力は1976年に正式に原発計画を公表した。しかし、関電が建設計画を進めた高屋地区では当初、住民のほとんどが反対していたという。そこへ関電側が住民の懐柔に動いた。「タダで飲み食いさせたり、原発視察名目の接待旅行に何度も招いたり。
芸能人を呼んだ住民向けのコンサートも開かれた。僕は一度も行かなかったけど、最後は住民が飽きて視察に参加しなくなるほどだった」
関電から、地域の祭りで使う奉灯「キリコ」の収納庫や農作物の保冷庫などを建てるための多額の寄付もあった。原発予定地の土地を貸して、億単位の賃貸料を得た住民もいたという。
「カネ」の力の前に、一人また一人と賛成に回り、地域は分断されていった。
◆「安全はウソ」 学ぶほど疑念は確信に
計画が持ち上がった当初、塚本さんは原発に賛成でも反対でもなかった。しかし、「推進、反対の本を100冊は読んだ。学ぶほど、安全はウソで固められていると疑うようになった。
放射能と人間は共存できんなと」。
米スリーマイル島や旧ソ連チェルノブイリでの原発事故もあり、疑念は確信に。反対運動へ深く関与していった。
転機となったのが、関電が高屋地区での原発建設に向けた現地調査に乗り出した89年5月。塚本さんを含めた住民たちは調査に入ろうとする関電の車列を阻止し、市役所で約40日間にわたる座り込み抗議を始めた。円龍寺は反対運動の拠点となった。
「それまで表に出ないようにしていたが、このときは大声を上げた。行動しないと何もならんと。知らん間にリーダー的な存在に祭り上げられていた」と塚本さん。住民らは念仏を唱えて道路に座り込んだ。調査を中断に追い込んだ。
◆「絶対に推進派の個人攻撃だけはするな」
この頃から原発を巡る対立は激しくなっていく。高屋地区では住民の賛否が分かれる中で、毎年秋の住民運動会が中止された。生活雑貨店を営み、原発に反対した井上伸造さん(76)は「『反対派の店で物を買うな』と、不買運動も起きた」と明かす。
塚本さんへの圧力も強まった。自宅では連日、無言電話が鳴り、電話が盗聴されたとしか思えない内容が書かれた手紙などが届いた。嫌がらせは、計画が凍結されるまで10年以上続いた。推進派に包丁を突きつけられたこともあった。しかし、「絶対に推進派の個人攻撃だけはするな」と周囲に何度も言い続けた。
◆住民のわだかまりは「もう過去のこと」
反対派で建設予定地の土地を共有化したり、関電株を買って計画撤回の株主提案をするなどして手を尽くした。原発に反対する政治家を増やそうと、県議選や市長選などにも関わった。
「強い者の味方をしたら坊主じゃない」という父の教えが行動を後押しした。
塚本さんらの反対もあり、3電力側は2003年12月ついに計画凍結を発表した。11年の東京電力福島第1原発事故の後には「珠洲に原発はなくて良かった」と、推進派だった住民が塚本さんに話しかけてきたことも。だが、今では原発が住民の話題に上ることもない。住民同士のわだかまりは「もう過去のこと」だという。
今回の能登半島地震で珠洲原発の予定地だった高屋地区の海岸線は数メートル隆起した。もし原発があったら大打撃を受けた可能性もあった。前出の井上さんは「原発事故が起きたら、能登はなくなっとったかもしれんね」。塚本さんは淡々と語る。「言葉を尽くすより、あの様子を見て想像がつくでしょう。やっぱり日本に原発を造れるところなんてどこにもないね、と」
◇
◆事業者による活断層評価は「明らかに過小」
東京電力福島第1原発事故後、市民の立場で脱原発を求める発信・提言を続けている「原子力市民委員会」は、今回の能登半島地震で、地震や津波が頻発する日本の原発の危険性があらためて浮き彫りになったとして、18日にオンラインシンポジウムを開いた。
「事業者による活断層評価は明らかに過小評価だった。数メートルに及ぶ地盤の隆起や変異を原発の安全設計に組み込むことはできない」「社会インフラが機能不全に陥った。原発事故発生時に避難や機材、人員の増強は不可能だと分かった」
座長を務める龍谷大の大島堅一教授(環境経済学)が、今回の震災で浮き彫りになった、志賀原発の問題点を列挙した。
◆地割れが隆起が起きたら、原発は持たない
「原発にとって脅威なのは、想定していない揺れが起こること」と「想定外」の地震の怖さをあらためて訴えたのは、元東芝原発設計技術者の後藤政志氏。志賀原発1号機の直下には活断層が走っていると一時は評価されたが昨年、覆った。
「この断層を元に地震が起きると強く主張するわけではない。他で大きな地震が起きた時に連動して揺れ、原発に影響を与えるんじゃないか、という心配をしている」。
その上で、「地割れや隆起が起きれば、原発は持たない。原発を断層のない安定した地盤の上に設置することは最低限必要。能登半島地震は原発の危険性を突きつけている」と訴えた。
原子力資料情報室の松久保肇事務局長は使用済み核燃料(SF)について言及した。北陸電は仮に全電源が喪失した場合、SF冷却プールが100度に達するのは1号機で17日間、2号機で29日間と推定している。だが、松久保氏は「志賀原発は長時間停止しており、SFの発熱量がかなり下がっているからこれだけ時間がかかる。停止直後ならこんなに余裕はなかった、ということになるだろう」と話す。
津波についても「今回は原発に3メートルの津波が来たとされているが、3メートル以上来たらどうなるか。海水ポンプも壊れていたのではないか」と危惧する。
◆徒歩も自動車も、屋内退避もままならない
一方、環境経済研究所の上岡直見代表は、石川県が策定した避難計画で指定する道路の多くが寸断されたとし、「原発避難は30キロ、数十キロ移動する。
徒歩は考えられない。自動車で移動するのかといったら駄目ということ」と断じた。
今回は、多くの家屋が倒壊しており、屋内退避もままならない。上岡氏は「仮に倒壊しなくても、ライフラインが途絶すれば屋内退避はできない」とする。さらに、避難時に放射性物質が衣服や体に付着していないか調べる場所「スクリーニングポイント」の開設や、ヨウ素剤の配布も困難だと指摘した。
大島氏は「日本は世界にも稀(まれ)な地震、自然災害大国。現行の規制基準に重大な欠陥があり、避難態勢にも実効性がない。現在稼働する全ての原発をただちに停止させるべきだ」と語った。(宮畑譲)
◆デスクメモ
10年前、大飯原発の運転差し止め命令を出した樋口英明元福井地裁裁判長は13日、「当時の人たちのおかげ」と、珠洲原発を止めた塚本さんらに感謝した(16日東京新聞茨城版)。その感謝の輪に、関電も加わるべきだ。珠洲原発が実現していたら、何が起きたか想像もつかないのだから。(歩)
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・青木美希さんが30年追っている原発、核の問題について現場から発信するYouTubeチャンネル。
著書に『なぜ日本は原発を止められないのか?』(文春新書)、『地図から消される街』(講談社)など。
・ラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ グローバルな記憶文化の形成』(名古屋大学出版会、2020)
「ヒロシマ」と「ホロコースト」が大量虐殺の歴史・記憶として並記されることはあっても(例えば、加藤有子編『ホロコーストとヒロシマ:ポーランドと日本における第二次世界大戦の記憶』)、その関係を明らかにする仕事は貴重です。広く読まれてほしい一冊です。
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・NHKBSザ・ベストテレビ2024第1部で、放送文化基金賞のドキュメンタリー部門で最優秀賞を受賞したETV特集『膨張と忘却〜理の人が見た原子力政策〜』(2024/3/2放送)を視聴した。故・吉岡斉さん(九州大学教授)が残された膨大な「吉岡文書」と、番組が独自に入手した経産省の内部文書や関係者の証言をもとに、日本の原子力政策の決定プロセスの不合理性・不透明さを証拠資料に基づいて明らかにしたドキュメンタリーである。原子力に関わる国や電力会社の利害関係者による事前会議や秘密会議で既に審議の方向性が決められた上での結論ありきで進められる原子力政策の決定プロセスの茶番劇ぶりに憤りを覚えた。同番組を制作したNHK福岡局(報道番組)の石濱陵ディレクターはビキニ水爆実験60周年の時の番組も制作している。日本政府に対してビキニ水爆実験関連文書を開示させたことを含めて、その蓄積が本番組にも素晴らしく発揮されている。
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吉岡氏が委員を務めた原子力委員会の「長期計画策定会議=長計会議」(04〜05年)では、核燃料サイクルの見直し、地下深くに埋める直接処分案が検討されていた。経産省の若手官僚からも、「核燃料サイクル構想は既に破綻」しているとする告発文書「19兆円の請求書〜止まらない核燃料サイクル〜」が出されていた。
ところが、05年10月の原子力委員会「原子力政策大綱」では、「核燃料サイクル構想は継続する」ことが決められる。「長計会議」での政策見直しに期待していた吉岡氏は、「原子力長期計画委をつらぬく無責任の思想」と手帳に記し、この決定を厳しく批判。
番組では取材を積み重ね、「長計会議」の開催の前にこの決定がなされていた事実を明らかにした。「長計会議」の2か月前に開かれた国と電力会社の検討会議では、政策を見直さないことで合意。1か月前に開かれた電力事業連合会と自民党の会合でも、見直さなにことを前提とした議論が交わされていた。さらに、「長計会議」の座長を務めた近藤駿介氏が中心となり、「勉強会」と称する秘密会議が作られ、核燃料サイクル推進の議論が進められていたのである。近藤氏を追及する石濱ディレクターの緊迫のインタビュー映像に息をのむ。
こうした国の原子力行政の実情について、「19兆円の請求書」の作成に携わった官僚は取材に、「結局、国民よりも自分達の飯の種とか、立場とかを優先しているんですよ。『金』と『嘘』と『おまんま』がグチャグチャになって、固まっているんです」と語っている。
結局、青森県六ヶ所村の再処理工場の稼働開始は26回も延期され、既に7兆円以上の国費が投入されている。吉岡氏は、「日本の原子力において、発足したプロジャクトは、条件がいかに変化しようと、中止に追い込まれることがなかった。所管省庁、電力業界、政治家、地方自治体の有力者すべての構成員が、何らかの利益配分を受けることが出来る限りにおいて、分裂は回避され、結果として原子力事業者の自立的な膨張がもたらされてきた。国民の痛みの上に、政策は成り立っている。1人1人では広く薄くても、トータルは途方もない」という言葉を残している。
番組は、日本の原子力政策がなぜ変わらないのかを見事に描き切った。報道局のディレクターによる、ETV特集(番組制作局)での素晴らしい自由演技。
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九州大学「日本の科学技術論を牽引した故・吉岡斉氏の資料群を公開へ 原子力政策等に係る貴重な資料数万点」2024.02.26
・尾崎譲治さんFB投稿(2020/8/28):「第一次伊方原発訴訟で原告側特別補佐人を務めた先輩であり畏友でもあった故荻野晃也氏(元京都大学原子核工学講師)の遺稿が出版されました。
題名は「科学者の社会的責任を問う」で、緑風出版の発行によるものです。氏は今年6月29日に逝去されましたが、病床で執筆、校正していたことは生前に伺っていました。
日本人最初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹氏は、ある意味で神格化されていますが、荻野氏は師でもある湯川氏の軍事面での反核運動の一方で、平和利用というベールを被った原子力発電については本質的危険性や隠された軍事目的に目をつぶり、ある意味で推進側に立ったという批判をしています。
私自身、高速増殖炉「もんじゅ」の失敗で破綻した核燃料サイクルに未だに国が執着している原因は、プルトニウム生産による核兵器開発準備という隠された軍事目的があると思っています。そうでなければ、単に失敗を認めたくないのか、複雑に絡み合った利権のなせる業としか解釈のしようがありません。いかに強弁しようとも、原子力産業は世界の潮流の中では、破綻して敗戦処理のみが残っているのであり、日本独自で成功出来る筈はありません。強行すれば、無能な経営陣により会社を傾けた東芝のような運命があるだけです。
伊方訴訟では三人の原告側特別補佐人がおりましたが、星野芳郎氏(当時立命館大学その後帝京大学教授)、久米三四郎氏(当時大阪大学講師)は既に鬼籍に入られており、最後の生存者であった荻野氏を失ったことは残念です。
第一次伊方原発訴訟はこの国での初めて全面的な原発安全性論争を国と争った訴訟で、その際に危険性の根拠として論証したことは結果として何一つ安全性対策として生かされず、その結果が福島原発事故の大悲劇の遠因になったことは歴史の証明するところです。論争は実質的に住民側の全面勝利で、錚々たる国側の証人が弁護側の追及に反論できなくなり絶句したこともしばしばだったと聞いています。ただ、事原子力に限ってはどうやら最高裁以下が組織的に国側を擁護していたようで、裁判長の突然の交代等があり、最高裁で敗訴が確定しました。
1970年夏、学部学生だった私は荻野氏他の示唆を受けて松山に帰省した際に、伊方町九町の反対共闘委の川口寛之氏を訪問しました。これが多分伊方の原発反対運動が全国レベルとの連携を始めた最初だと思います。
氏は第一次伊方原発訴訟以降は反原発運動とは少し距離を置いていましたが、イージスアショア反対運動へも関与し、社会的弱者への温かい目を終生貫いた姿には頭が下がります。」
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・後藤秀典さんの講演ビデオ「最高裁、東京電力、国、巨大法律事務所の関係」。東京電力福島第一原発事故に関わる訴訟で東京電力、最高裁判所、国、そして巨大法律事務所が密接な関係を築いている。日本の司法の頂点に立つ最高裁で、一体、なにが起こっているのか、日本の司法の独立は、どうなっているのだろうか。
後藤秀典さんの著書
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・この本は、元記者の著者が、原発問題と新聞報道の関係に焦点を当てたものです。脱原発の記事がボツになったり、編集で削られる実態を自身の体験をもとに描いています。
また、福島の被災者や避難者の声を広く紹介し、脱原発の必要性を論じています。エネルギー政策の見直しが進む今、原発について再考するための多くの手がかりを提供する一冊です。原発依存を続けるべきではなく、核のゴミを次世代に押し付けないためにも、真剣な議論が必要だと強調しています。
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E8%81%9E.../dp/4861245303
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・原発事故被害者の救済を求める全国ネットワーク集会「原発事故被害は今どうなっているの?」2025年1月26日(日)
登壇者:開会あいさつ 佐藤和良
問われぬ原発事故の責任 武藤類子
廃炉は今どうなっている? まさのあつこ
汚染土のゆくえ 和田央子
飯舘村の現状 伊藤延由
原発事故の避難と住まいの権利 吉田千亜
続く保養の役割 矢野恵理子
閉会あいさつ 宇野朗子
・安田菜津紀さんの取材レポート「被爆と出自、70年近く隠し続けた。今なぜ、自身の名で被爆体験を語るのか。」2021.8.5
・美術家・内海信彦さんFB投稿:「【カザフスタンはソ連共産党支配下で、実に456回もの原水爆核実験がセミパラティンスク実験場で行われた被爆・被曝国です。カザフスタン民衆の憤りは、ソ連共産党の残虐な支配が過去の問題ではないことを示しています。現在もなお人びとが高濃度の放射性汚染に曝される中で、人びとは、カザフスタンが旧共産党特権官僚に支配され続けていることに対決しているのです】
カザフスタンの独裁者ナザルバエフは、共産党支配階級の頂点にあった時代に、核実験を遂行し続けて、自国を核汚染させた犯罪者です。
ソ連共産党支配下で、前カザフスタン大統領ヌルスルタン・ナザルバエフは、カザフスタン共産党中央委員会第一書記からカザフ・ソビエト社会主義共和国閣僚会議議長となり、1986年からソビエト共産党中央委員会委員だった人物です。ナザルバエフは、共産党支配が崩壊し、カザフスタンがソ連邦から独立してからは、似非ナショナリストに豹変し、三十年もカザフスタンを支配したのです。
セミパラティンスク核実験場は、1949年から1989年までソ連最大の核実験場でした。 1947年、ソ連共産党支配者スターリンの手先で前NKVD議長ベリアは、セミパラティンスク一帯が無人地帯だと偽り、強制収容所の政治犯を動員して、核開発製造のために秘密研究都市セミパラティンスク-21を建設し、数々の原水爆実験と核開発を行いました。セミパラティンスクは研究都市からわずか60㎞の地点にあり、研究都市住民も高度の核汚染をしていたのです。
1949年8月29日に行われた最初の核実験以来、周辺数百㎞のカザフスタン市民に凄まじい放射性物質が降り注ぎながら、共産党官僚から一切の避難措置もなく、1955年の地上水爆実験などでは多くの市民を高濃度汚染地帯に留め置いて、人体実験が行われてきたのです。
セミパラティンスク核実験場による放射能汚染はカザフスタン国境内に留まらず、中国・ウイグル、モンゴル、アルタイ、ロシアなど隣接する地域の市民をも被曝させています。
私は合州国のグランドゼロとロスアラモスを何度か訪れて、アメリカンインディアンが受けた核汚染がいかに凄惨か、合州国政府が先住民に行った核攻撃だったかを聴かされてきました。カザフスタンの核汚染は、ウラルの核惨事と、チェルノブイリ原発事故と並ぶソ連共産党の核攻撃です。
カザフスタン民衆の間で、放射能汚染による重度の放射能障碍が拡がり、数十万以上の被曝者に死傷者が出ていながら、ソ連共産党およびカザフ共産党は1989年まで健康被害を隠蔽し、抗議する人びとを強制収容所送りなどの弾圧を加えてきました。国際的な非難とソ連邦内部の抗議運動により1989年にヴラスノチで被害の一部が公開され、1991年8月29日にセミパラティンスクは閉鎖されました。被曝の実態が調査されたのは共産党支配の崩壊以降であり、ナザルバエフ支配下で調査と治療は疎かにされてきました。
カザフスタンには「原子の湖 Atomic Lake」があります。水爆実験で大地が吹き飛ばされて出来た巨大なクレーターです。ソ連共産党は、巨大運河や河川改修に核爆発を用いようとしています。まさに共産党の機械論的唯物論思想と、生産力主義の愚かさの極みです。そして冷戦下での核戦争に備えるという先軍思想が引き起こした「自国民」への核攻撃です。チェルノブイリは、起きるべくして起きた、ソ連共産党の人類史的犯罪です。
共産党支配と闘うカザフスタンの人びとは「ネバダ・セミパラティンスク」という反核グループを立ち上げて、国際社会にセミパラチンスクの悲惨を訴えました。合州国で928回原水爆実験が行われたネバダの市民と連帯した運動には、多くの市民が参加しました。ソ連共産党支配を打ち倒した民主化運動は、共産党支配の残虐性をチェルノブイリとともにセミパラティンスクから学んだのです。
カザフスタン現大統領カシムジョマルト・トカエフはソ連共産党支配下の外務官僚で、カザフスタンの独裁者ナザルバエフのパペットであり、ともに共産党支配を事実上継承する独裁者プーチンの同盟者です。
ソ連共産党が核実験を行ったもう一ヶ所の実験場は、北極海のノヴァヤゼムリャ諸島にあります。ノヴァヤゼムリャでは224回も原水爆実験が行われ、ロシアになってからも実験は続けられています。」
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・後藤秀典氏(ジャーナリスト)講演「裁判所・東電・巨大法律事務所のつながりと原発裁判」(2024/2/11)。階級支配と言って良いと思います。
・金井塚務さんFB投稿(2024/12/12):「今日、核廃棄物中間貯蔵施設の建設計画に関するアセスメントの実施を求める、関連7学会の要求書を中国電力に提出してきたのですが、同行した佐藤さん(著者の一人、鹿児島大学名誉教授)から「ウナギの想いを探る」(花乱社 1200円)という著書を頂いた。
生物的自然の価値をウナギを通して考えるという内容です。ウナギ好きなあなたの必読の書かも知れません。お勧めです。いかに電気エネルギーが必要とはいえ、食の生産現場を破壊するような原発は不要です。電気で痺れても、食べることはできません。食の大切さを再確認しましょう。」
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・「オルタナ伝承館」シンポジウム(2024/11/29)
3.11から来年3月で14年が経ちます。当時まだ生まれていなかった子どもたちも増え、記憶の風化も懸念されていて、その継承が重要な課題となっています。
そうした中で、過去の失敗に学び、草の根の経験と記憶を伝えようと、福島県内に民間の伝承施設(「オルタナ伝承館」)が複数つくられています。それらを紹介するガイドブックの刊行を機に、登場する3館(おれたちの伝承館(南相馬市小高区)、伝言館(楢葉町)、原子力災害考証館furusato(いわき湯本))と寄稿者に集まっていただき、ミニシンポを開催します。民間伝承施設の活動とその意義についてより広く知っていただき、利用促進につなげられればと考えています。
日時:2024年11月29日(金)17:30-19:00
主催:科研費基盤研究(C)22K01855「福島原発事故における民間伝承施設の社会的意義と役割」(研究代表者:除本理史・大阪公立大学)
協力:公害資料館ネットワーク
後援:河北新報社、東信堂
<タイムテーブル>
趣旨説明 除本理史(大阪公立大学/公害資料館ネットワーク)
各館の自己紹介
中筋純(おれたちの伝承館)
丹治杉江(伝言館)
里見喜生(原子力災害考証館furusato)
「オルタナ伝承館」への応援メッセージ
井出明(金沢大学)
なぜ「オルタナ伝承館」に注目したのか
東野滋(河北新報社福島総局)
ミニシンポ:「オルタナ伝承館」の思い
司会:林美帆(岡山理科大学/公害資料館ネットワーク)
・能登半島地震当時の日経新聞の記事(2024/1/10 21:05)。志賀原発の建屋が1/100以上傾いていることはこの記事から断定できる。6リットルのオイルが海に流出したとある。建屋の床は必ず水漏れに備え床勾配1/100の床ドレンがある。建屋が1/100以上傾かないかきり漏れたオイルは床ドレンに回収される。ところがオイルが海に漏れている。建屋が1/100以上傾いたことにほかならない。建屋も格納容器も同一岩盤の上に強固に立っている。その岩盤が傾いたのだ。近くの海岸が4mも隆起しているのだから当然の結果だ。格納容器も1/100以上傾いていることになる。中にある原子炉も傾いていることになる。原子炉が1/100以上も傾くと女川原発のように中性子計測検出器が挿入出来ないばかりか制御棒も挿入できない。原子炉は致死線量であるので補修のしようがない。従って志賀原発も廃炉しかない。北陸電力は無駄な設備投資しないことだ。社長以下、株主から民事、刑事から責任を求められる。
・森重晴雄さんFB投稿(2024/11/13):「なぜ急ぐ必要があるのだろうか。中性子検出器が挿入できないばかりか制御棒が挿入できない可能性があります。原子炉が出力を上げ高温になるほど地震で受けた歪みが開放されペデスタルや原子炉が傾いていきます。その傾きが1/1000でも危険です。これで女川2号機はまたトラブルが発生し再稼働ができないことを自ら実証するかもしれません。」
・1993年に放送されたETV特集『モリチョウさんを探して~ある原爆小頭児の空白の生涯~』が2024/11/4にEテレで再放送される。伝説の名作。ディレクターは、去年『ラジオと戦争』で賞を総嘗めにした大森淳郎さん。編集は鈴木良子さん。日本被団協の相談員でもあった伊藤直子さん、モリチョウさんを写真で記録した森下一徹さんも、もうこの世におられない。モリチョウさんが息を引き取ったみさと健和病院、幾度となく手術を受けた柳原病院。たくさんのひとたちの関わりのなかで、この番組は生れた。本放送のときより、一層胸に沁みる。
・宮崎園子さんの記事。「被団協ノーベル賞受賞おめでとう」で終らせないために。
・「被団協ノーベル平和賞受賞、日本政府は侵略の原罪を謝罪すべき」韓国原爆被害者協会陜川支部など団体、「被団協ノーベル平和賞受賞を祝賀」声明発表 2024 年10月15日
日本原水爆被害者団体協議会(以下『被団協』)のノーベル平和賞受賞を祝賀する。
韓国原爆被害者協会陜川支部(支部長:シム・ジンテ)、陜川原爆資料館(館長:シム・ジンテ)、韓国原爆被害者子孫会(会長:イ・テジェ)、韓国原爆被害者2世患者会(会長:ハン・ジョンスン)、陜川平和の家(院長:イ・ナムジェ)は、15日に声明を発表した。
1945年8月、アメリカが日本の広島と長崎に投下した原子爆弾による被害から今年で79周年を迎え、被団協がノーベル平和賞を受賞することとなったため、韓国にある関連団体が祝意を表し、「非核」を強調したのである。
彼らは「予期していなかったノーベル平和賞の受賞により、これまで原爆被害者の苦痛を証言してきた日本の被団協被害者たちの叫びが、日本国内の被爆者の問題としてのみ認識されてはならない」とし、「さらに、日本の朝鮮半島侵略と戦争加害に端を発するアメリカの原爆投下の罪を、日本が免れることがあってはならない」と強調した。
アメリカの原爆投下に関して、彼らは「日本政府が唯一の被爆国であると主張し、戦争を引き起こした加害の責任を、この受賞をきっかけに、日本の二つの顔、特有の排外主義を強化する機会にしないか非常に懸念している」と述べた。
さらに、彼らは「今回の受賞を契機に、日本政府は戦争加害と強制動員に対する責任を認め、正式に謝罪すべきだ」とし、「アメリカもまた、民間人を対象にした反人道的、反生命的な核兵器投下の行為に対して正式に謝罪し、賠償すべきだ」と述べた。
世界の核兵器に関して、原爆被害者団体は「今回の日本被団協の受賞を通じて、世界最大の核保有国であるアメリカとロシアの核兵器削減にどのような影響を与えるかは不明だが、大統領選挙を控えたアメリカや、ウクライナ戦争を引き起こしたロシアの核削減および軍事力維持政策に変化をもたらす契機となることを望み、覚醒を促したい」と述べた。
今回の被団協のノーベル平和賞受賞を契機に、アメリカ、ロシア、中国、イスラエルなどの核保有国、ならびに韓国、日本などの潜在的な核保有国は、核兵器自体を根絶するために国連の核兵器禁止条約(TPNW)を批准すべきであるという。
韓国の原爆被害も甚大であった。彼らは「韓国の原爆被害者は、日帝に強制動員され、広島と長崎で10万人以上が被爆し、5万人以上が命を失った。世界で2番目に多くの被爆者を抱える国でありながら、その存在は世界にほとんど知られていない」と指摘した。
続けて、「日帝の植民地支配とともに、国民の権利と普遍的な人権が蹂躙された被害国として、被害者が多いにもかかわらず、アメリカと日本を中心とした国内の政治秩序の中で、徹底的に排除され、無視されてきた」と付け加えた。
被爆の被害などに関連して、彼らは「今回の日本被団協の受賞を契機に、一度被爆されると、その後遺症の苦しみがその世代で終わらず、次の世代にも不必要な大きな苦痛をもたらしているのが『核』であるという事実を、世界市民社会は改めて認識し、反核平和を目指した連帯の旗をさらに掲げなければならない」と述べた。
世界の被爆者と市民社会の交流と連帯を望む彼らは「人類の生命と平和を破壊する戦争や、一瞬で多くの生命体の貴重なすべてを奪い去る核兵器の使用は、もはや人類の歴史に記録されるべきではありません。その切実な人類の願いが、今年のノーベル平和賞に込められています」と語った。
原爆被害者団体は「韓国の多くの原爆被害者1世と2世、その後継者たち、そして支援団体は、日本被団協の受賞を心から祝福し、これを契機に韓国の原爆被害者はもちろん、世界の多くの被爆者たちが絶望から希望の継承を果たすことができるよう、関心と支援が増えることを願っている」とし、「地球上から核兵器と原子力発電所が消え去り、『核のない世界』が実現されることを切に祈りたい」と強調した。
・「日本も米国も朝鮮人被爆者に一度も謝罪しなかった」15日にハンギョレの電話取材を受けた広島県朝鮮人被爆者協議会の金鎮湖(キム・ジンホ)会長(78)は、今年のノーベル平和賞の受賞団体として「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)が選ばれたことについて、複雑な心境を示した。金会長は「原爆を投下した米国だけが間違っていたのではなく、植民地朝鮮から無数の朝鮮人を連れて行き、最終的に原爆被害を受けさせた日本政府も責任が大きい」として、このように述べた。
・川口隆行さんFB投稿(2024/10/13):被団協の[ノーベル賞]受賞を機に「被団協以前」の取り組み、具体的には1952年の「原爆被害者の会」の結成にも光が当たると良いですね(受賞翌日の中国新聞の年表では触れられていましたが)。吉川清、峠三吉、山代巴、川手健らの広島での尽力は、ビキニ事件以降の大きな流れの原点でもあり、『この世界の片隅で』(1965)などの山代のその後もあわせ考えれば、そもそもが「大きな運動」へのオルタナティブであったと言えます。この会の活動から生まれた手記集『原爆に生きて―原爆被者者の手記』(1953)については、拙著『広島 抗いの詩学』第7章で詳しく論じていますが、原爆文献(文学)の必読書の一つです。これは誰よりも私が尽力すべきことですが、文庫本などで手軽に読めるようになればと願います。」
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・原爆詩人・栗原貞子研究に7年 82歳被爆者の著作に自費出版文化賞 [広島県]:朝日新聞デジタル /
「生ましめんかな」などの作品で知られる原爆詩人、栗原貞子(1913~2005)を7年かけて研究した成果をまとめた松本滋恵(ますえ)さん(82)=広島市=の著作「行動する詩人 栗原貞子」(23年出版)が第27回日本自費出版文化賞の部門賞(研究・評論)を受賞した。9日に東京で表彰式があった。
元々研究者だったわけではない。21歳で中央大の通信教育課程に入ったが、仕事との両立が難しく中退した。主婦だった32歳の時に交通事故で夫を失い、小学校の給食調理員として働きながら3人の子を育てた。
大学に行きたい気持ちはずっとあった。一念発起し、定年を前に59歳で放送大学へ。大学院修士課程にも進み、被爆体験を文学作品に残した原民喜と峠三吉をテーマに修士論文を書いた。博士後期課程は広島女学院大へ。同大の「栗原貞子記念平和文庫」に通いつめ、77歳で博士号を取った。
原爆文学をテーマとした理由は自身の被爆体験だ。原爆投下前日の1945年8月5日は爆心地に近い左官町で時計店を営んでいた伯父宅で過ごし、夕方に江波の自宅へ。翌日、祖父や伯父夫婦ら4人が原爆で亡くなった。1日の違いが運命を分けた。「原爆から生かされている」と今も強く思う。
博士論文は栗原がGHQのプレスコード下で刊行した詩集「黒い卵」や日本の戦争加害と向き合った「ヒロシマというとき」などを取り上げ、創作意図や時代背景などを読み解いた。
2年前、亡くなった弟の自宅から、81年前に太平洋のパラオ沖で戦死した父の遺品「支那事変従軍記章」が見つかった。日中戦争への従軍を顕彰する記章だ。
「敵を9人殺した自分は畳の上では死ねない」。父がそう語っていたと生前の母から聞かされたことを思い出した。「やっぱり私も加害者じゃないか」
栗原は軍都だった広島は加害者でもあると訴えていた。「戦前から反戦を貫き、加害責任をも問い続けた栗原のことを知ってもらいたい」。本を出版し、改めて願っている。(柳川迅)
放送大学では21年かけて教養学部の「生活と福祉」「発達と教育」など全6コースすべてで学位を取得する「グランドスラム」を達成した。被爆者らでつくる「ヒロシマを語る会」に加わり、今年5月から証言活動にも携わる。
・「映像'16」 よみがえる科学者~水戸巌と3・11~
【MBS】毎日放送2016年3月6日(日) 放送
山間の仮設住宅で暮らすひとりの男性がつぶやいた。
「あの人の言葉に耳を傾けていれば、こんなことにはならなかった…」
男性は福島県浪江町の漁師。「あの人」とは物理学者の水戸巌である。
水戸巌は東大原子核研究所の研究者。日本の原子力研究の最前線に立った。
だが原子力の利用はあまりにもリスクが大きいと、原子力政策に警鐘を鳴らすようになる。
1970年代以降、東海村を皮切りに各地の原発訴訟では科学者の立場から原告の住民を支援。福島第一原発の周辺地域にも通い、浪江町の漁師たちとも交流した。そしておきた「3・11」。
番組では、科学者水戸巌の足跡を辿ることで日本の原子力政策の歴史と課題を振り返り、科学者のありようについても考えてみる。1986年、厳冬の剣岳で2人の息子とともに遭難死した水戸巌。没後30年、そして「3・11東日本大震災」から5年を迎えるいま、「行動する科学者」水戸巌がよみがえってきた。
取材ディレクターより:
2015年の暮れ、私たち番組取材班はまだ暗いうちから北アルプスの剱岳を仰ぎ見ていた。科学者 水戸巌(1933-1986)が挑んだ厳冬の剱。「これが最後の挑戦だからね」と笑顔で水戸が妻に伝えた、その山の麓で夜明けを待った。視線の向こうに水戸と双子の息子たちが志半ばで遭難した北方稜線。しばらくして、その稜線から朝日が差し込んできた。静寂の中、この瞬間を逃すまいとするカメラマン。神々しい剱岳が姿を現した。私は思わず手を合わせ、携帯のカメラで写真を撮り、ご家族にメール送信した。「天国みたい。3人の魂が降りてきたのかもしれませんね」。返信を読んで涙がこぼれ、胸が熱くなった。
この番組の主人公、水戸巌は山と音楽をこよなく愛したという。1960年代後半から国と科学官僚らが推進する原子力政策に対し、「私たちは『原子力平和利用の技術』をまだ手にしていない」と批判し、反原発の立場で発言を続けた。原発建設に反対の声を上げる住民に頼まれれば、全国各地どこにでも出かけていった。東北での集会では、講演料も受け取らず、混雑する列車で立ったまま東京に帰ったという。弱い立場の人たちにどこまでも優しかった、と水戸を知る人たちは言う。
私が水戸巌を知ったのは、大飯、高浜原発の再稼動差し止めを求めた、妻の喜世子さんとの出会いからだった。水戸巌の論文や講演録に触れるにつれ、水戸をいまに蘇らせたいと思うようになった。その論考や肉声は、古びていないどころか新鮮に感じられる。30年以上も前のものなのに・・・。
3.11福島原発事故から5年を迎えるいま、ひとりの科学者が、社会的責任を自らに問い、どのように生きようとしていたのか、多くの視聴者に届けたいと思う。そして、この国の原発政策について、いま一度、深く考えるきっかけになればと願っている。
http://www.mbs.jp/eizou/backno/160306.shtml
・2024/12/22(日)「ヒバクシャと出会うカフェ~一緒に考えよう!これからの継承のカタチ~」開催。
詳細/参加申込は👉
全国証言マップ掲載の岩佐幹三さんの英訳体験記を紹介します。この体験記は、横浜国立大学長谷川健治准教授及び「被爆者証言翻訳を通じて 学ぶ核問題」受講生(2023年秋学期)のご協力によって英訳しました。
(その1)。
全国証言マップ掲載の英訳体験記の閲覧方法
(1)全国証言マップにアクセス👉
(2)顔写真のアイコンをクリック
(3)その方の体験記を下までスクロール
(4)写真の「ココ」のリンクをクリック
・川口隆行さんインタビュー記事
・被爆樹を知っていますか?被爆直後は「七十五年間、草木も生えない」と言われたヒロシマの町。ところがその年の秋にはアサガオなどが、さらに翌年の春を迎えると、クスノキ、イチョウ、サクラ、ソテツ、アオギリなどの木々の折られた枝、焼かれた幹、かろうじて残った根から、次々と新芽が芽生え、新しい命が育ち始めました。広島市では爆心地を中心に半径およそ2Km圏内の58か所、約170本の樹木を「被爆樹木」として認定しています。本書は被爆樹1本1本を訪ね歩き、その木について紹介するとともに、被爆当時の記憶のある方々や「被爆樹木」を守っている方々のお話しも伺ってまとめた一冊です。被爆樹は原爆被害の「生き証人」として、これからも無言で人々に核兵器の恐ろしさと、平和の尊さも伝えていくことでしょう。
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