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山形放送『想画と綴り方』“北に向いし枝なりき、花咲くことは遅かりき、その咲く花の強かりき”(国分一太郎)

遅ればせながらではあるが、2020年11月12日(木)にNHK BSプレミアムのザ・ベストテレビで放送された、第33回民教協スペシャル「想画と綴り方〜戦争が奪った子どもたちの“心”〜」(YBC山形放送制作、2019年日本民間放送連盟賞 テレビ教養番組の最優秀作品)を視聴した。素晴らしいドキュメントだった。番組上映後の登壇者たちの感想や、制作にあたったチーフディレクターの伊藤清隆さん(山形放送)のお話も良かった。


舞台は、山形県東根市にある長瀞(ながとろ)小学校。長瀞地区は江戸時代に置かれた陣屋のお堀に囲まれた農村集落である。昭和初期の東北の農村は度重なる冷害に見舞われ人々が窮乏に喘いでいた。1930年に始まった昭和恐慌は農村にも大きな打撃を与えていた。番組全体を通してフォーカスが当てられていたのは、生活綴方教育を実践した小学校教員の国分一太郎(1911〜1985)。師範学校を卒業したばかりの青年教師だった国分は1930年(19歳)長瀞尋常小学校に赴任し、生活綴方教育に力を入れた。子どもたちは、生活をしっかりと見つめ表現する想画(生活画)教育と生活綴方教育によって劇的に成長していった。90歳を超えた教え子たちが、今もいきいきと当時のことを語る。「図画の時間は嬉しかった。時間割を見るとわくわくした」

1934年、東北地方は記録的な大凶作に見舞われ、山形県内各地で娘の身売りが急増。宴席で客をもてなしたり身を売ったりする東京都内の女性1万9000人あまりのうち山形県出身者はおよそ1500人、全体の8%近くにものぼっていた。有名な「娘 身売り相談所」の張り紙。当時の山形新聞の見出しに「自慢にならぬ日本一…悲惨な娘の身売り さて根本原因は?」「貞操料廿八銭落ち行く先は」とあるが、廿八銭は現在の価格で900円足らずである。

国分が長瀞小学校に赴任した1930年、当時学校では想画と呼ばれる生活画教育が花開こうとしていた。明治時代の図画教育は、教科書に図示されてある三角形の図形なら三角形の図形をそっくりそのまま書き写す、お手本をそっくり模写しなさいという教育だった。それに対して、自分の身の回りの生活に目を向けてそれを素直に表現するのが想画の意義。想画教育は綴方教育と相俟って、さらに深まってゆく。長瀞小学校は島根県、三重県の小学校とともに「三大想画教育校」と呼ばれ、1932年には全国小学図画展で優勝。村人たちも「この頃子どもたちはおもしろい図画を描くようになったね先生」「こんな風に描ければおもしろくてたまらないだろうな。上手になったもんだ」と、苦しい時代の中で想画教育は村人の共感にも支えられていた。

上中良子さんの下記論文によれば、長瀞小学校の「想画」は、「大正自由教育の『芸術教育運動』に傾倒していた佐藤文利が持ち込んだ"自由と個性を尊ぶ図画教育"と、国分一太郎の"綴方教育視点"が結合して結実した」とのこと。

番組に出演しておられた山形大学の降籏孝さんの以下の論文も参考になる。

しかし農村の小学校にも戦争の影が忍び寄る。長瀞小に赴任して4年、国分は生活綴方教育に一層力を注ぎ、東北各地や北海道にも足を運び志を同じくする教師たちと交遊を深める。

ところが、1937年、日中戦争が勃発。間もなく国家総動員法が公布され、国民は生活の隅々まで強い統制の下に置かれるようになる。国分はこの年(1937年)、戦争の勃発に弟の急死が重なって重い不眠症に陥り、入院。翌年(1938年)、教師を免職となったことを院長に告げられる(27歳)。免職の理由は入院中に出版した相澤ときとの共著『教室の記録』(1937年)の中で、身売りの悲惨さなどに触れていることが「共産主義者のようだ」と山形県の学務当局に問題視された。教職員への復帰はかなわず、国分は1939年、日本軍に雇われ中国へ渡り、2年後に帰国すると、綴方教育の仲間がすでに100人以上も治安維持法違反で検挙されていることを知る。

山形県が特高警察の大きな部隊になっていた。生活綴方によって農村を知る、生活水準を知るということが自分たちがいかに恵まれていないか、貧しいかということを認知するので、それが結局、国の方針がおかしいと考えるようになる、その種火を作ることが国家にとっては恐ろしかった。1941年真珠湾攻撃でアジア太平洋戦争が勃発。その前夜、国分は東京の自宅から山形警察署に連行される。4年前まで長瀞小学校で行っていた綴方教育が治安維持法違反とされ容赦ない取り調べを受ける。国分を取り調べたのは、山形県警察部の特高係主任の砂田周蔵(秀三)。砂田は特異な経歴の持ち主で、長瀞の隣町の小学校を卒業して上京して、白樺派の作家の有島武郎の書生になっていて(有島武郎が心中事件を起こして亡くなった後、砂田は山形へ戻ると、有島武郎の上司を賛美する文章を地元の新聞に寄稿していた)、若い頃共産主義を掲げた論説を何度も新聞に寄稿し、農民運動や労働運動のリーダーになっていた。しかし1927年、砂田は二十歳で徴兵され満州・独立守備隊へ入り、3年後帰国すると警察官となり特高係に。一転、社会運動を弾圧する側に回った。戦後は立身出世を続けて最後は警察庁の幹部にまで上り詰めた。かれ自身が特高に入った動機として高給の魅力や出世欲について書き残しているそうで、まさに悪の凡庸さを感じさせるが、砂田は自らの転向について・のちにこう綴っている。警察官になった動機は、「学歴もなく兵隊から帰ったばかりのかれに職のありよう筈がなかったので、初任月給三十六円その他諸手当という巡査の待遇が大きな魅力であった」(『警察時報』昭和39年(1964年)5月号)。特高となった心情は、「特高警察が花形役者となって時局の舞台に登場していた。」それこそが「自分に適した出世の街道でもあると考えた」(同上)。国分が生活綴方を利用して子供に階級解放の思想などを注入したとする砂田。取り調べは長期化していく。激しいやり取りの中で砂田が国分を殴り付けることもあった。国分は2年近く身柄を拘束され、懲役2年・執行猶予3年の有罪判決を言い渡される。この時32歳。

番組では、国分が捕えられた同じ年、北海道でも、多くの教師や学生が検挙される事件が起きたことを紹介していた。旭川師範学校(現在の北海道教育大学旭川校)の美術部の学生など20人以上が治安維持法違反に問われ、思想犯として逮捕された「生活図画事件」(1941年)である。わたしは2019年10月に、大阪ニコンサロンで三木淳写真展と同時開催されていた高橋健太郎さんの写真展「赤い帽子」を観に行ったが、それはこの「生活図画」=身の回りの生活を見つめ、ありのままを描くことさえも許されない時代を生き抜いた証言者たちの現在の日常を切り取った写真展だった。

「ベートーヴェンはコミュニストかと詰問せし特高警部の心根あわれ」熊田満佐吾(獄中にて)

2017年頃、国会で共謀罪(テロ等準備罪)法案が審議されていた頃、「生活図画事件」で治安維持法の弾圧を受けた当事者である松本五郎さんや菱谷良一さんらが「あの時代を繰り返してはならぬ」と今の日本の現状に怒りを込めて証言活動や国会請願を続けられ、共謀罪法案の廃案を訴えておられたのをよく記憶しているが、この番組のディレクターもまさに同じ問題意識で取材を始めたと語っておられた。

以下の「あさひかわ西地域九条の会」のサイトには、生活図画事件に関する資料やイベント動画などがまとめられているので要チェック。菱谷良一さんの『獄中記』や松本五郎さんの『証言』もある。

札幌の「ギャラリー北のモンパルナス」さんのブログには、菱谷良一さんと松本五郎さんの紹介記事があるので紹介まで。

「作家に聴く「戦争」No.3 菱谷良一」

「作家に聴く「戦争」No.4 松本五郎」

「ギャラリー北のモンパルナス」さんが出された『無二の親友展』図録や、松本五郎さんが亡くなられた後に出された『松本五郎展』図録もある。


治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部の役員で元高校教師の宮田汎さんは、治安維持法適用の道内第1号となった(道北)「集産党事件」を追跡されていた方であるが、「生活図画事件」の掘り起こしにも一役買っており、自ら編著された『生活図画事件 : 戦時下の民主教育 もう一つの峰 増補版』(北海道機関紙印刷所、2008年)を出されている。書店等では入手できないが、国立国会図書館に所蔵されている。

治安維持法の非道「北海道生活図画事件」
無実の学生にも実刑…共謀罪つぶしてほしい
2019年5月20日しんぶん赤旗より【文化】

被害者 菱谷良一さんが証言
 共謀罪法や憲法改悪に反対する「自由と平和のための東京芸術大学有志の会」が毎月行う「芸術と憲法を考える連続講座」で14日、1941年に起きた「北海道生活図画事件」の被害者が登壇し、治安維持法の非道さを証言しました。(米重知聡)

 登壇したのは菱谷(ひしや)良一さん(97)。41年9月20日、旭川師範(現・北海道教育大学旭川校)の美術部学生の一人だった菱谷さんらは、教師や卒業生などの関係者とともに治安維持法違反容疑で検挙されました。

国家転覆の容疑 全国で逮捕者が
 前年の40年11月20日、北海道旭川で「生活綴方(つづりかた=作文)」に関わった教師らが検挙され、翌41年1月10日には旭川師範や旭川中学の教師や関係者ら「生活図画」関連の53人が一斉検挙されました。この中には、綴方でいつも菱谷さんを褒めていたという小学教師・入江好之(よしゆき)さんや、菱谷さんに絵を教えた旭川師範の美術教師・熊田真佐吾さんもいました。

 「生活綴方」「生活図画」は「生活をありのままに描く」とした作文・図画教育です。この活動の関係者や学生らが、国家転覆を企てるものとして全国で逮捕され、実刑や執行猶予の有罪判決を受けました。

 「生きている限り自分の経験をたくさん話したい」と登壇した菱谷さん。小学校時代には綴方が得意で、旭川の小学生の作文を集めて発行した文集に毎回登場していたといいます。絵画も得意だった菱谷さんは、旭川師範で小学校の先輩に誘われて美術部に入りました。

 「熊田先生は、絵の技術のことはうるさく言わなかった。教育理念として、絵を通じた人間形成に力点を置いていて、ものを正しく見ることを強調していた」

 また、美術家や美術史の勉強だけではなく、演劇や音楽など情操教育を重視し、修学旅行では東京の築地小劇場で新劇の舞台を見たといいます。

 熊田さんの検挙後、美術部は解散され、美術部員と美術部に出入りしていた学生たちは留年処分になり、校長から「反省」生活を強要されました。早朝と夕方に学内の神社の清掃・参拝、放課後には校長による特別指導がありました。

 菱谷さんが検挙されたのは、本を挟んで会話する2人の学生を描いた「話し合う人々」と題する絵で、「描かれている本はマルクスの『資本論』だと当局がでっち上げた」からだといいます。菱谷さんは当時、「マルクスなど何も知らない学生」でした。

「息子の苦しみ」塀の前で嘆く母
 菱谷さんの実家は旭川刑務所のすぐ近くで、塀の前を通るたびに母親が「この中で息子が苦しんでいる」と嘆いたそうです。冬は氷点下30度を下回る寒さの中、暖房もない独房で1年3カ月を過ごしました。

 釈放後の1943年、菱谷さんは「赤い帽子の自画像」を描きました。

 「2月11日の紀元節(現・建国記念の日)だった。天皇は国民を赤子のように慈しむというが、無実の学生を1年も閉じ込めるとはどういうことかと、こみ上げてきたほとばしる怒りを絵に込めた。アカ呼ばわりするなら、アカになってやろうと赤い帽子をかぶった」

 2017年に成立した共謀罪法について「治安維持法と同じ、衣を変えただけ。自分は治安維持法でイヤってほど痛めつけられ、生涯消えない傷を負った。法律ができた以上、市民の力でつぶしてほしい」と語りました。

 講座では、東京芸術大学ドイツ語非常勤講師の川嶋均さんが「北海道生活図画事件」の概要と、事件と東京芸大関係者について解説しました。

 「事件では芸大関係者も4人検挙され、治安維持法違反では全国と植民地で10万1654人が被害者。共謀罪法は『社会運動は制限しない』といっているが治安維持法成立時もそうだった」

 菱谷さんたちの写真集を用意している写真家の高橋健太郎さんも登壇し「共謀罪法にある『実行準備行為』には写真を撮ることも含まれる。自分もカメラを武器に政府を批判していれば、菱谷さんのように検挙される可能性がある」と警鐘を鳴らし、言論・表現を抑圧する動きとたたかう決意を示しました。

国分が検挙された一年後、長瀞尋常小学校は国民学校に名前を変え、それまでの教育を叩き直すかのように軍人援護研究校に。想画と綴方の教育は見る影もなかった。

戦後、国分は教壇に戻ることなく、児童文学や教育評論に取り組み、多くの著作を残す。

山形県天童市の児童文学者、鈴木実さんは学生時代、国分の童話に感銘を受け、文集『もんぺの弟』にあやかって『もんぺの子』という童話雑誌を発行。鈴木さんは「もんぺの子」という名前を使わせてくださいと国分にお願いに行った時、国分は「ああいいよ」と色紙を書いてくれた。「北に向いし枝なりき花咲くことはおそかりき」。国分は北国の花コブシが好きで自宅の庭に1本植えていたが、東北の自然が厳しい状況で、しかも半封建的な状況の中で、それを突破しようとしている文化運動が「北に向いし」、「花咲くことはおそかりき」はそれが弾圧されて実を結ばなかったということ。


東根市にある国分の生家。本棚がそのまま残っている。

国分一太郎の生活画と綴り方運動は、戦後、無着成恭の「山びこ学校」(1951年、山形県の中学校で青年教師、無着成恭が生徒たちに生活のありのままをつづらせた生活記録。戦後民主教育の金字塔と呼ばれて映画化もされた)に引き継がれ、強い花を咲かせる。一度は途絶えた生活綴方教育が再び光を浴びたのである。

無着成恭の綴方運動を映画化した今井正監督の『山びこ学校』(1952年製作)は以下のリンクで視聴できる。

国分が晩年に記した掛け軸には、「北に向いし枝なりき  花咲くことは遅かりき」という色紙の言葉に、「その咲く花の強かりき」と付け加えられていた。現実を見つめ、表現する力を育む自らの信念と誇りがそこにあった。そして今、長瀞小学校は俳句と絵画の教育を熱心に続けている。

戦前戦中に全国の小学校で描かれた絵は敗戦の時にほとんどが焼却処分されたが、長瀞小学校ではひとりの教師がその価値に気付いて絵を焼却から守り抜いたそうである。だから今も当時の絵がしっかり残っている。長瀞小学校の卒業生たちが、国分一太郎の教え子たちの想画と綴方を冊子にまとめて刊行しているらしい。

参考資料①:北村山視聴覚教育センター制作「生活綴り方 国分一太郎」(1997年)

参考資料②:京都大学 教育学研究科 2020レクチャーシリーズ 越境する「日本型教育」の歴史的・多角的理解に向けて 第3回「世界に羽ばたく生活綴方? ―『世界の子ども』(全15巻、平凡社、1955-1957年)にみる「翻訳」の問題」講師:駒込武さん(京都大学大学院 教育学研究科 教授)

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