これまでに観た「鬼」に関する番組まとめ(随時更新)

(1)NHK歴史秘話ヒストリア「大江山鬼退治 なぜ人は鬼を討つのか?」2020年12月9日(水)放送


(2)NHKBSプレミアム よみがえる新日本紀行「鬼と琵琶法師〜大分県国東半島〜」2021年2月7日放送

(3)NHKEテレ にっぽんの芸能「幻の能“篁”復曲〜よみがえる執心の鬼〜」2021年3月12日放送

足利将軍や天下人らが能を愛してきた京都。この街の京都観世会館で今年2月、室町時代に途絶えた能「篁(たかむら)」が上演された。主人公は漢詩や和歌の才能を発揮しながら、地獄に通ったという伝説をもつ平安貴族・小野篁(おののたかむら)。歴史の波にうずもれた鬼の能をよみがえらせようと、研究者は古文書を読み解き、能楽師たちは謡や所作を工夫し、曲趣を生かす面と装束を選定した。現代に復活した幻の能の魅力を伝える。
【司会】高橋英樹
【解説】法政大学名誉教授 能楽研究家…西野春雄
【語り】池上季実子

【楽曲】
1.「古演出による能『葵上』」
~2021年2月13日 京都観世会館にて収録~
2.「復曲能『篁』」
~2020年12月23日・2021年2月13日 京都観世会館にて収録~

平安時代に日本最初の検閲を受けた小野篁は、「西道謡」という歌で朝廷ないし帝(嵯峨天皇)の権威を損ねたとして隠岐への島流しに遭った(歌の中身は伝わっていない)。これが史実で確認できる日本最初の検閲事件で、まさに天皇制が主題の表現への弾圧になる。

この歌は作者の小野篁が勅勘に触れて隠岐に流される時の歌であるという。
六道珍皇寺


(4)NHKEテレ にっぽんの芸能「鬼の棲(す)む国 日本〜古典芸能 “鬼”の表現〜」2021年4月19日(月)放送

歌舞伎の大江山酒呑童子などを紹介している。小松和彦先生の仰る東北と京で“鬼”の意味合いが変わるという話が面白い。

(5)NHKEテレ にっぽんの芸能「人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」2021年4月23日放送

3月に行われた特別日本舞踊公演から舞踊「安達ケ原」を放映。奥州・安達ケ原に伝わる鬼女の伝説を舞踊にした作品。出演は花柳寿楽、若柳壽延、猿若清三郎ほか。

(6)NHKBSプレミアム ニッポン島旅「長崎 壱岐島 鬼が島伝説」2020年2月9日放送

作家のヤマザキマリさんが、長崎県壱岐島の鬼が島伝説をめぐり旅をする。島の各所に残る鬼が島伝説を伝える巨石や絶景。そして注目は、鬼退治の様子が描かれた「鬼凧(おんだこ)」と呼ばれる島に伝わる伝統凧だ。現在、鬼凧を作れるのは平尾フクヨさん(85)ひとりだけ。こうしたピンチに孫の斉藤あゆみさん(26)が凧作りの技を継承しに島にくるようになった。鬼凧を守ろうとする家族を通し、壱岐の歴史と今を見つめる。

(7)NHK BS1スピリチュアルジャパン「日本の鬼」2021年12月1日(水)放送

(8)瀬戸内海放送 磯田道史徹底解説 日本遺産 古代吉備の遺産と桃太郎の物語 2022年2月26日(土)放送

(9)BSフジ・181 ガリレオX 第261回「鬼の正体・今の日本があるのは鬼のおかげかも」2022年2月27日(日)放送

(10)NHKBS『にっぽん百名山』「鬼の棲む津軽富士へ〜岩木山〜」

(11)NHKEテレ『祭り5min.』#8「鬼夜」

福岡県久留米市で1月7日に行われる「鬼夜」(おによ)の祭り。炎と大松明そして闇。舞台となるのは福岡県久留米市にある大善寺(おおぜんじ)玉垂宮(たまたれぐう)。1月7日境内には大松明(おおたいまつ)が6本。夜8時過ぎ、境内の全ての明かりが落とされる。(一番鐘の音)神殿から登場したのは鬼火(鬼火出御)。大晦日に火打ち石でともし、7日間神殿で守り続けた聖なる火である。鬼火は一番松明に点火される。すると他の大松明にも一斉に火がともされる。大松明の火を浴びると無病息災になる。裸衆と観客たちは火の粉をかぶり一年の無事を祈る。いよいよ大松明廻(まわ)しである。長さ13メートル、重さ1.2トンの巨大な松明。大松明は先が二股になった棒で持ち上げられ境内を移動する。周りには大勢の人々。間違いは許されない。6本の大松明の移動に1時間を要した。大松明は神殿の西側に集められる。すると建物によって東側に大きな闇が出来た。この闇こそが鬼が動ける空間なのである。西側で大松明が燃え盛っているその時、東側ではそれまで鬼堂(おにどう)に籠もっていた鬼が動き始める。鬼は子どもたちに守られ、鬼堂を7回半回る。姿は見せない。鬼が境内に身を潜めると一番松明が東へと移動する。大松明の火は闇を作る。鬼と子どもたちはその闇に身を潜め、神社の境内を川へと向かう。一番松明も川を目指す。鬼の通り道を炎で清めるためである。この地では鬼は人々の願いや悩み、不幸や災難を一身に背負ってくれるありがたい存在なのである。鬼の先導役を務める一番松明が惣門にさしかかった。門に触れず焦がさず素早く通り抜け周りを炎で清める(惣門くぐり)。人間の業を引き受けてくれた鬼のためである。川までの道筋を清めた一番松明は土手で火を消す。鬼は川でみそぎを行い人々の重荷を流す。鬼夜(おによ)の主役は闇の中を神殿に戻り新しい一年を過ごす。

参考文献①:かつての日本で障害児は「鬼子」だった――小山聡子著『鬼と日本人の歴史』

『《「桃太郎」や「一寸法師」など鬼の登場する物語は数多くあり、子どもの頃に読んだ人も多いはず。しかし、鬼を昔話の中のものとして片づけることはできません。かつての日本では障害を持って生まれた子どもを「鬼子」として恐れ、ときには棄てていたといいます。小山聡子さん(二松学舎大学文学部教授)による『鬼と日本人の歴史』(ちくまプリマー新書)は、「鬼」の歴史をひもとき、日本人の心の有様を浮かび上がらせる一冊です。本書より本文の一部を公開します。》
棄てられた鬼子のパワー
 体の形状に異常を持って生まれた子どもは「鬼子(おにご)」と呼ばれていた。鬼子と呼ばれた障害児について見ていきたい。
 藤原頼長の日記『台記』天養元年(一一四四)五月二〇日条に、左近衛大将源雅定からの伝聞に基づく鬼子の出生の噂が記録されている。
「大津で鬼子が生まれたということである。その容貌は、顔の長さが一尺(約三〇センチ)、二つの目は開かず、鼻の長さは顎まで及び、顎の下に口があり、頭の後ろにまた目と鼻と口がある。ただし、頭の後ろの目は一つである。これを路頭に棄て、通りがかりの者が杖をついて近寄ったところ、即座に鬼子は杖を取り立ち上がって、一夜のうちに行方不明になった。」
 これは、あくまでも頼長が耳にした噂話であり、このまますべてを事実として受け取ることはできない。ただし、都からほど近い近江国(現在の滋賀県)の大津で体の形状に異常のある赤子が生まれ、棄てられたことは事実なのだろう。『台記』の記事からは、鬼子が健常児には持ち得ない不可思議かつ強力なパワーを持っていると考えられていたこと、さらには得体の知れない恐ろしいものとして認識されていたことが分かる。
怪異とされた鬼子の誕生
 体の形状に異常のある子の誕生は、たびたび歴史書にも記された。なぜ歴史書に記されたかというと、このような子の誕生は国家として重大な意味を持つと考えられたからである。たとえば歴史書『百練抄』長寛三年(一一六五)四月一二日条には、次のように記録されている。
「近衛河原あたりに異児がいた。胸より上は二人に分かれており、頭は二つ、胸より下は一人である。諸道に和漢の例を勘申させた。」
 「異児(いじ)」は鬼子と同義である。この「異児」は、親によって河原に棄てられたのだろう。「諸道」とは、経書(儒教の基本的な教えを記した書物)に通じた明経道や法律に通じた明法道などを指すと考えられる。これらに所属する官人に日本と中国の先例を調べさせ、報告させている点も興味深い。
 そもそも中国では、為政者である皇帝の失政を戒めるために天が怪異や災害を起こす、とする思想があった。我が国では、王の失政を戒める天については浸透しなかったものの、体の形状に異常を持つ子が誕生すると怪異であると見なしていた。たとえば、東晋時代の学者干宝による『捜神記き』には、体の形状に異常を持って生まれた子どもの事例が非常に多く記されている。このような子どもの出生は、怪異として認識され、政治や社会の混乱が起こる予兆であると解釈されていた。日本でも、中国思想の影響のもと、形状に異常のある子が誕生すると、怪異であると見なされた。都から遠く離れた地方でも、このような子が誕生すると、国司から朝廷への報告がなされていた。ちなみに、人間のみならず、動物の子の誕生の場合も同様であった。
 我が国の鬼子の事例を見てみると、胴体が一つ、頭が二つ、手が四本であることが多い。たとえば、中山忠親の日記『山槐記』治承三年(一一七九)一一月九日条には、五条河原に「異児」の頭が一つ、手足がそれぞれ四本あったことについて、明経博士の清原頼業が「和漢」の先例を調べたところ、すべて頭が二つある例であり、一つの頭に多くの手足が付いているのは初めてである、とされており、帝の崩御や謀反、大臣薨去(薨去は、皇族や三位以上の人が死去するときに使う語)などの前兆である、と記録されている。
 一つの体に二つの頭がつく事例ばかりであることは、中国の書物にこのような障害児の誕生が非常に多く記録されていることと関係しているのだろう。歴史書『漢書』の中でも、災異とその解釈に関する「五行志」には、『京房易伝』に基づいて、首が二つあるのは上が一つにまとまっていないということ、手が多いのは任用された者が邪悪だということだとする解釈が記されている。中国の書物の影響のもと、このような特徴を持つ子どもの出生への恐れが広がり、障害児が誕生するとその実態はともかくとして、どんどん話に尾ひれが付き、都にいる貴族の耳に入る頃には、体が一つ、頭が二つ、手が四本といった特徴が伝えられたのではないだろうか。
棄てられた鬼子
 体の形状の異常を理由に赤子が棄てられることはしばしばあった(大喜直彦「中世の捨子」)。左大臣三条実房の日記『愚昧記』永万二年(一一六六)七月一九日条にも、鬼子についての伝聞が次のように書きとどめられている。
「美福門の前に鬼子が棄てられたということだ。鬼子は、首が三角で、口が四角、額に角が生えているということである。よくよく考えるに、このような「異人」が現れ出てきたのは、はなはだもって凶事である。去年このような「異子」が一両人生まれたという。このことをもって考えをめぐらすに、すでに大恠か。恐るべし、恐るべし。」
 美福門は、大内裏の門のうちの一つであり、二条大路に面していた(第一章三六頁の「平安京大内裏図」を参照)。多くの人通りがあるので、誰かに拾われ育ててもらうよう期待され、棄てられたのだろうか。棄児は、しばしば大寺院や貴族の邸宅の前に棄てられることがあった。『愚昧記』の記事も、前の『台記』と同様、伝聞によるものなので、鬼子の容貌についてどの程度正確に記されているのかは分からない。そうではあるものの、この記事からも、体の形に異常を持つ子どもの出生は凶事であり、さらには「大恠」、すなわち不吉なことが起こる前兆だと捉えられ、恐れられたことが分かる。これらからは、体の形状の異常について、病気の一つであるとする認識は読みとれない。凶事でありその後の不吉な事柄の兆しとされた鬼子は、棄てて良い子ども、もしくは棄てるべき子どもだったのだろう。
 一二世紀に成立した『東山往来』にも、棄児に関する記述がある。『東山往来』は、京都東山の僧と俗人の檀越との往復書簡からなる往来物もの(手紙文の模範文例集)である。『東山往来』二三条には、ある雑使し女(朝廷や院御所などで雑役や走り使い、随行にあたった最下級の女性)が歯を生やした男児を産んだところ、近隣の者たちがこれを怪しみ、「この児は不吉だ。歯を生やしているのは鬼だ」と言って山野に埋めて殺すことを勧められたがどうすべきかを問う書簡がある。それへの返信では、歯を生やして生まれてきた子は、才知に長けた証であり害はない、と強調されている。生まれた時に歯が生えていた立派な僧や天皇の事例をあげた上で、近年の人は「聞学」が浅いので「異相そ」を恐れるのだとして、その子を養って僧にするように、と勧めている。
 『東山往来』からは、生まれてきた赤子に歯が生えているだけでも鬼であるとして棄てられていたことが分かる。「不吉」な子を埋めて殺せば、「不吉」はある程度解消する、と考えられたために棄てられたのだろう。
 記録の中には、しばしば棄児に関するものが見られる。棄て場所は、路のほか、橋や河原、山などであり、それらはこの世と異界の境界の場だといって良い。棄児は、多くの場合、助けられることはなくそのまま死を迎える。現世から離れる者を送りだす場として、境界の意味を持つ場所がふさわしかったのだろう。
歴史的事実に決して目を背けてはいけない
 体の形状に異常を持つ子どもが「鬼子」と表現されている点については、着目すべきであろう。とりわけ、『愚昧記』の記事では、産まれた赤子には角が生えている、とされている。これは鬼が角を生やす姿をしているという認識がある程度共有されていたために、このように語られたのだろうか。あるいは、実際に赤子の額に腫れがあり、それが角だと見なされた可能性もある。見かけが健常者とは異なることに対する畏怖があり、健常者にはとても太刀打ちできない超人的な力をもってして害を及ぼしてくることを危惧されたのだろう。
 体の形状に異常を持ってこの世に生を享けた子を鬼子と呼ぶことについて、現代の社会に生きる人間としては到底受け入れることはできない。しかし、だからといって、このような歴史的事実に決して目を背けてはいけない。こうした事実をこそ、私たちは心に刻んでおく必要があるのではないだろうか。
小山聡子(こやま・さとこ)
1976年生まれ。98年筑波大学第二学群日本語・日本文化学類卒業。2003年同大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了。博士(学術)。現在、二松学舎大学文学部教授。専門は日本宗教史。著書に『親鸞の信仰と呪術――病気治療と臨終行儀』(吉川弘文館)、『浄土真宗とは何か――親鸞の教えとその系譜』『もののけの日本史――死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書)、『往生際の日本史――人はいかに死を迎えてきたのか』(春秋社)などがある。』(じんぶん堂 2023年4月12日)

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鬼にまつわるアレコレ

・国鉄バス 鬼死骸停留所 一関市真柴
バス路線が廃止され放置状態であった旧国鉄バス時代の待合室が観光停留所として復活。
鬼死骸の地名の由来や歴史などが待合室の中で紹介されています。

岩手県一関市に1875年まで「鬼死骸村」がありました。明治の合併でなくなりました。その停留所から約1200m程の所に鬼石の下に東北アイヌ(通常は、「蝦夷」と表記されますが、蔑称なので「東北アイヌ」と表記しました。)の武将の大武丸の頭部が埋葬されているそうです。胴体は、そのから300m位離れた場所に切り刻まれて岩の下に埋葬されているらしい。坂上田村麻呂に討伐されて斬首の際に首が飛び落ちた所が宮城県大崎市の鬼首(おにこうべ)に落ちたらしいです。この鬼石から200位の所に鹿島神社がありました。坂上田村麻呂が鹿島神宮から勧請した神社です。東北アイヌ民族は、とても強かったから?鬼と表記されたのではないでしょうか?
鬼と戦った金太郎(坂田金時)は、足柄山で熊にまたがり、鬼退治の稽古をした(らしい)。鬼は、京都の酒呑童子です(👹と🐻が出るらしいので、どちらが怖いと思いました)。

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