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アイヌ文献紹介(随時更新)

・リチャード・シドル『アイヌ通史ーー「蝦夷」から先住民族へ』(マーク・ウィンチェスター訳、岩波書店)

・東條慎生の講演「忘れられた作家・鶴田知也を読むーー北海道・開拓・アイヌ」(2013)は、岡和田晃編『北の想像力』(寿郎社2014)所収の東條の論考「裏切り者と英雄のテーマ 鶴田知也『コシャマイン記』とその前後」をもとにしたものだが、「コシャマイン記」に対する保田與重郎による酷評、勝本清一郎による高評など、論考にはない当時の評価が紹介されていて興味深い。

http://genshisha.g2.xrea.com/north/tsuruta.pdf

・岡和田晃さんFB投稿(2024/12/13):「無料公開! 学術誌「日本近代文学」109集に掲載された拙論「アイヌへの加害の歴史、強制された共生ーー向井豊昭「御料牧場」を対位法的に読むーー」(History of Assault on the Ainu, Forced Symbiosis: A Counterpoint Reading of Mukai Toyoaki's “Goryō Bokujō”or “The Imperial Farm”,2023)が、PDFにてダウンロードできるようになりました。『北の想像力』に代表される、私の「北海道文学」や「現代アイヌ文学」に関し、ここ数年の試行錯誤の成果です。広くお読みいただければ幸いです。

My representative academic paper using the methods of postcolonial criticism is now available for free download pdf.

なお、本論で浅川義一の孫と書いている方は、刊行後も継続していた調査で「子孫」と書いた方が正確だと判明しています。こちら補足として、どこか、機会を設けて活字でも言及するつもりです。」

・照山直子さんFB投稿(2016/9/15):「先週の土曜日に日本カレドニア学会で発表しました。カレドニアはスコットランドの旧名で、スコットランドを愛するさまざまな分野の人が所属しています。経済でも教育でも料理でも文学でもキルトでもバグパイブでも民謡でもなんでもありです。 
私が取り上げたのはラナルド・マクドナルド。1848年に難破を偽装して利尻島に上陸、アイヌの人々に助けられ、松前で取り調べをうけたあと長崎に。1853年ペリー来日時に通訳を務める森山栄之助らオランダ語通司14人に英語を教えた人ですが、あまり知られていないようです。お父さんはスコットランド人、お母さんは北米原住民チヌーク族の酋長カムカムリの娘です。
19世紀のはじめごろ、スコットランドのハイランド地方はハイランド・クリアランスで借地農家の人たちが農地を奪われ困窮にあえぐ状態にありました。
爵位を継いだセルカーク5世は窮状を見かねてプリンスエドワード島に土地を購入、貧困の農夫の移住を計画します。移住民の通訳や統率を任されたのがラナルドの父アーチボルドでした。
入植は必ずしもうまくいくとは限らず犠牲者もでてセルカーク卿は胸を痛めたそうです。アーチボルドはハドソン湾会社に入り、農地開拓や貿易に活躍します。各地を旅して地形地質などを記録、それが後の鉄道敷設に役だちました。
ラナルドは生後間もなくチヌーク族の母をなくしますが、継母に可愛がられて育ち、教育も豊かに授けられます。
やがて、神秘の国、日本への憧れを募らせ、遭難を偽装するという暴挙に出ます。人柄が良く日本でも友好的に受け入れられ強制送還されるまで、充実した数ヶ月を過ごしたことが『日本回想録』に綴られています。
北米大陸に漂着した尾張の音吉らはモリソン号事件で帰国が叶いませんでしたが、宣教師ギュツラフが日本語聖書を作るのを手伝いました。ラナルドは耳から聞き取った日本語をカラスの羽軸をペンにしてアルファベットで書き留め、和英語彙集を作りました。
音吉は外国から日本に手紙を書いては誰かに託し外国の様子を知らせました。ラナルドは愛を持って日本の様子を知らせました。歴史の教科書ではほとんど扱われない人々が実は歴史を動かしているのかもしれませんね。」

http://www.ne.jp/asahi/caledonia/jcs/pdf/2016prog.PDF

日本カレドニア学会ニューズレターNo.58

http://www.ne.jp/asahi/caledonia/jcs/newspdf/News_58.pdf

・砂澤ビッキ詩集『青い砂丘にて』(ビッキ・アーツ)、限定300部。

・1971年11月の北海道新聞より
佐々木利和氏が若々しいです。

・多様なルーツを持つ人々が集うアイヌ料理店から、文化の継承とアイデンティティ、開発と多様性、植民地主義と人権を問う「そして、アイヌ」3月15日公開
2024/12/20(金) 12:00配信

・映画『アイヌプリ』福永壮志 監督最新作

北海道・白糠町で伝統的な鮭漁のマレㇷ゚漁をはじめとしたアイヌ文化を継承し、日常の中で”アイヌプリ”(アイヌ式)を実践する人々を追ったドキュメンタリー
祖先から続く鮭漁の技法や文化、信仰等を次世代に伝えていく等身大の姿を映し出し、自らのルーツを大事にしながら今を生きるアイヌの家族の姿に迫る
出演:天内重樹 天内愛香 天内基輝 天内芳樹

・丹菊逸治さんFB投稿(2024/12/29):「アイヌ・先住民研究センターの隣の「子ども図書館」建設予定地から800年前のアイヌ民族の遺跡が出土したと報道で初めて知りました。竪穴式住居の遺跡です。まさか、遺跡を破壊して図書館を作ることになるのでしょうか?私たちセンター職員には何も知らされていないので、隣の敷地で何が起きているのかさっぱりわかりません。」

・「アイヌ民族と戦争」について掘り下げた北海道新聞の記事です。

勇敢な日本兵に 「平等」の名のもと差は闇の中 報道センター・武藤里美(32)<戦禍とアイヌ民族>①:北海道新聞デジタル
武藤里美
2024年12月31日 10:00(12月31日 11:53更新)

沖縄に刻まれた戦時の絆 慰霊塔に宿る平和の祈り 報道センター・武藤里美(32)<戦禍とアイヌ民族>②:北海道新聞デジタル
武藤里美
2024年12月31日 10:00(12月31日 11:37更新)

2度の強制移住で絶えた歴史 日ロが壊した千島の生活 報道センター・武藤里美(32)<戦禍とアイヌ民族>③:北海道新聞デジタル
武藤里美
2024年12月31日 10:00

文化継承に壁 社会の「目」に見張られて 報道センター・武藤里美(32)<戦禍とアイヌ民族>④:北海道新聞デジタル
武藤里美
2024年12月31日 10:00

GHQに訴えた民族の窮状 便せん15枚の思い 報道センター・武藤里美(32)<戦禍とアイヌ民族>⑤:北海道新聞デジタル
武藤里美
2024年12月31日 10:00

 第2次世界大戦でどれだけのアイヌ民族が徴兵され、亡くなったのか。2025年の戦後80年を前に、アイヌ民族を取材してきた記者は、国や北海道庁に照会したが、記録はなく、関連の公文書もほとんどなかった。・・・という記事を、北海道新聞が、ウエブで公開しています。

・蝦夷の墳墓か、九州初確認 強制移住「防人」可能性も | 2025/1/10 - 共同通信
福岡県那珂川市で約20年前に発掘された3基の古代墳墓が、石の積み方などから古代に東北などで暮らし、一部が九州に「防人」として移住させられた蝦夷の長らの墓とみられることが分かった。

・「混住」という言葉
私が子どもの頃、父の社宅に隣接して戦災の瓦礫の廃棄場所の上にいわゆるスラムがあったし、また小学生くらいまでは長屋とお屋敷が隣り合わせだったりした。
だから互いの様子もなんとなく見えていた気がする。
しかし今の自宅は50年前に開発された「新興住宅地」のため、かなり同質的な住民が多かった。
「共生」は言葉としては長く言われているが、具体的なイメージがわきにくいように思う。
「共生社会」への第一歩は、老若男女、障がい者と健常者、様々なルーツや社会的背景を持つ人が「混住」することのように思えたが。

・シクルシイ著『まつろはぬもの〜松岡洋右の密偵となったあるアイヌの半生〜』

シクルシイ プロフィール
1918年(大正7年)4月29日、北海道屈斜路湖畔のコタン(アイヌの村)に生まれる。父は和歌山県出身の和人、母はコタンのエカシ(長老)弟子小太郎の娘。和名・和気市夫。
生後間もない頃から神童として知られ、それに目をつけた南満州鉄道(満鉄)理事の松岡洋右に選ばれ、英才教育を施される。4歳で高等小学校2年に編入、8歳で旭川商業学校2年に編入し仏・露・中国語などを学ぶ。
1929年(昭和4年)、11歳で満鉄傘下のハルピン学院に入学、英・仏・露・中の言語以外にモンゴル語・ラテン語・ギリシャ語などを学び、同時に体術・銃器・爆薬・無線通信・暗号などの教育を受ける
1931年(昭和6年)、13歳でロックフェラー財団に属する北京の燕京大学人類学部多言語科に入学。「薫之祥(クン・ズシアン)」の中国名で主に学術調査を行いながら、中国・中央アジア・アフリカ・アメリカの各国を回る。この間に「北千島アイヌ語」に関する博士論文を書く。
1938年(昭和13年)、20歳の時に帰国して陸軍情報部付少尉となり、松岡の命を受けてアジア各地で「日本軍の戦闘中に起こった暴虐行為の真偽の調査」などを1945年(昭和20)まで行なう。
1945年8月16日、中華民国政府公安部によって逮捕され、拷問・土牢拘置を経て、46年、東京国際軍事法廷での松岡洋右(戦犯容疑)の重要参考人兼戦犯容疑者としてアメリカに引き渡されるが、松岡の死去により不起訴となる。
戦後はGHQ本部で軟禁状態で働かされた後、第一生命保険相互会社の人権問題研修推進本部理事会の顧問などを務めた。
2000年(平成12年)10月23日、肺気腫で死去。享年82。

・村崎恭子『エンチウ(樺太アイヌ)語 会話入門』

・三浦綾子さんがアイヌを描かなかった理由。

・【アイヌの歴史】わかりやすく解説!差別と迫害の苦難の歴史…誕生から現在のアイヌ問題まで解説

まだ観ていないが後でチェックする予定

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